『いちばんすきな花』が描いた「生きづらさ」とは何か

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『いちばんすきな花』が描いた「生きづらさ」とは何か

ドラマを観て救われた。人によっては大袈裟に聞こえるかもしれないフレーズだけど、実際、ドラマを観て救われた気持ちになる人はいる。

そして、『いちばんすきな花』(フジテレビ系)もまたいろんな人が救われたドラマだったと思う。

このドラマのすべてがつまった赤田と峰子の餃子

タレ皿に赤田鼓太郎(仲野太賀)はお酢をなみなみと注ぐ。妻・峰子(田辺桃子)は醤油とラー油を混ぜる。ホクホクと餃子にかぶりつきながら「おいしい」と言い合う2人。でも、タレが全然違う2人の食べている餃子は、厳密には同じ味とは言えない。

ひと昔前のドラマなら、このシーンは夫婦のすれ違いの暗喩だっただろう。同じものを共有しながら好みがまるで違う2人をシニカルに描いた場面として解釈された。でも、このドラマでは違う。

食卓を共にしているからって無理して相手の好みに合わせる必要なんてない。自分がいらないなら「いらない」と率直に言える関係のほうがずっと居心地がいい。人に自分の好みを押しつけないこと。人の価値観を否定しないこと。このドラマのすべてが赤田と峰子の餃子につまっていたし、個人的には最終回でいちばんの名場面だった。

「男女の友情ってさ、成立するの? しないの?」
「どっちでもいいんじゃない?」

志木美鳥(田中麗奈)は、詮索混じりの周囲の視線を跳ね返すような潔さで言った。あらゆるクエスチョンがそうなんだけど、とどのつまりは人それぞれでしかない。たい焼きを頭から食べるのか、尻尾から食べるのかと同じくらい、どうでもいい話題だ。少なくとも、他人が決めつけることではないし、そもそも他人の関係性にそこまで首を突っ込まなくてもいい。

他人は、他人。自分の定規で測れないし、正義を規定もできない。必要以上に干渉することはないのだ。僕たちはすぐに白か黒かを決めつけたがるけど、もっと「どっちでもいいんじゃない?」のマインドで生きていったほうが、たぶん自分も周りも生きやすいだろう。

「他人の価値観なんて理解できないけど、理解したいと思える他人と出会えることはある」

赤田は、峰子と生きていくために、付き合ってもいない男女が2人でカラオケなんて受け入れられないという峰子の価値観を受け入れた。一方、峰子は、ゴミ箱の底にゴミ袋を保管するという赤田の価値観を受け入れた。お互いの譲れるところを譲りながら、価値観をすり合わせていく。共に生きるというのは、たぶんそういうことで。

峰子は、自分からは摂取できない栄養分を潮ゆくえ(多部未華子)が赤田に与えられることが嫌だった。でも、たぶん少しずつ気づいていったのだろう。赤田鼓太郎を形成している要素の一つに、ゆくえからもらった栄養分があることを。そして、そんな赤田鼓太郎を自分は愛している。だから、ちゃんと事前に話してくれれば、ゆくえと会うことも構わないと思えるくらいにはなった。決して峰子はわからず屋でも独占欲の塊でもない。むしろちゃんと対話のできる人だった。

ルールも、価値観も、固定ではない。時と状況に応じて、緩やかに変化していく。人との関係性もそう。星と星との距離みたいに、時に離れたかと思えば、また急接近したりして。そうやって長い時間をかけて紡がれていく。その時間すべてが宝物だ。

「赤田さん、可愛いし」で、ぶりっこ顔をするところも含めて、最終回は赤田がおいしいところをたくさんかっさらっていった。出番自体は多いわけではなかったけれど、仲野太賀の役者としての魅力を再認識するような役だったと思う。

生きづらさとは、私が私であり続ける誇りなのだ

救いという意味では、篠宮樹(葉山奨之)がもう一度登場してくれたこともうれしかった。黒崎将太(前田龍平)が2人分買った、佐藤紅葉(神尾楓珠)が装丁を手がけた小説。篠宮もまた黒崎の分まで同じものを買っていた。喧嘩別れみたいになってしまったけど、決して紅葉のことが嫌いになったわけじゃない。今も温かい思い出として残っている。

紅葉もまた、ゆくえらと待ち合わせをしたカフェで篠宮の絵を見つけた。そのときの表情は少し複雑そうで。もしかしたらちょっと時間はかかるかもしれない。でも、やっぱりいつかまた篠宮と再会してほしいなと願わずにはいられなかった。いちばん大好きな人が何人いてもいいように、居場所だっていくつあっても構わない。ゆくえや春木椿(松下洸平)や深雪夜々(今田美桜)のように、篠宮と黒崎といる時間が紅葉のもう一つの居場所になったらいいななんて勝手なことを考えている。

「みんなみたいに、みんなにならなくていい。みんなに嫌われてる子なんていない」

『いちばんすきな花』は大多数になれない、少数派のための物語だった。この社会は、大多数側に立ち回っていたほうが何かと便利だし得もするようにできている。それ自体は、システム運用という面で見れば仕方ないことなのかもしれない。でもだからと言って、無理して大多数にならなくていい。自分を曲げるくらいなら、少数派にいることで被る生きづらさを引き受けたほうがいいことだってある。

生きづらさとは、私が私であり続ける誇りなのだ。いろんなことに傷つくあなたは、いろんなことに気づけるあなたでもある。自分の痛みと向き合うあなたは、他人の痛みに寄り添えるあなたでもある。そんな自分を誇りに思おう。生きづらさは、いとおしさだ。

孤独に抱えていたそんな生きづらさを、いつか分かち合える人と出会える。あなたがひとりで生きてきた時間は、そんな仲間と出会うための準備期間だったのだ。その関係が、恋人でも、友達でも、男でも、女でも、なんだっていい。他人の間違い探しに付き合うことはない。ただ一緒にいられることが楽しい。それが、どんな理屈よりも尊い答えなんだから。

そんな居場所を見つけられた4人が、ちょっとだけ羨ましくなる。でも、大丈夫。きっとどんな人にも居場所はある。まだ見つけられていないとしたら、今は準備期間なだけ。「置かれた場所で咲きなさない」は、僕の嫌いなポジティブワード。咲く場所くらい、自分で選び取らせてくれ。4人だって、あのテーブルはもうないけれど、きっと至る所でテーブルを見つけては、とりとめのないおしゃべりを延々と続けているだろう。それが家具屋なのはどうかと思うけれど(笑)。

追伸、とりあえず松下洸平が藤井風を歌い出すタイミングで部屋に入ってくるゆくえたちはどうか空気を読んでください。「な」の続きが……「な」の続きが聴きたかった……!

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