『ペンディングトレイン』が暗示する、飽食の時代を生きる現代人の“飢え”

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『ペンディングトレイン』が暗示する、飽食の時代を生きる現代人の“飢え”

きっとそんなに上等なものではないであろう牛丼をかきこんで、萱島直哉(山田裕貴)は「うめえ」と感動に浸った。

だが一方で、壁一面に陳列されたコンビニの商品を見て「こんなにあったら選べねえよ」と嘆いた。

それはまさに僕たち人間の実態だ。『ペンディングトレイン―8時23分、明日 君と』第9話が描いたのは、未来から戻ってきた彼らの痛烈な現実だった。

なぜ直哉はコンビニで何も選べなかったのか

見渡す限り樹海と砂漠。そんな荒れ果てた世界で生きていた直哉たちにとって、水も食糧も貴重な財産だった。毎日チームで遠方まで水を汲みに行き、食事は木の実や草など粗末なものだけ。肉なんて食べたのは本当に久しぶりで、きっとあの瞬間、直哉は元の世界に帰ってきたことを実感できたと思うし、これまで当たり前だと思っていたものがどれほど尊いものだったかを改めて感じることができたはずだった。

しかし、手の異変によりハサミがにぎれなくなった直哉は、希望を失った。さらに、自分たちを捨てた母がまるで感動の実話の主人公のように息子への愛を語っているのを見て、失意の底へと叩き落とされた。

人は、希望を失うと見える世界が変わる。ふらっと立ち寄ったコンビニ。そこには、過剰に物が溢れていて。きっとまだ食べられるのに廃棄される商品も少なくないだろう。この世界では、食べることに困ることなんてない。飢えを知らぬ、飽食の時代だ。

それが、どうしようもなく受け入れがたかった。言いようのない違和感でいっぱいだった。食べるのに必死だった、今日を生きていくだけで精一杯だった未来とはまったく違う物質社会。ほんの少し前まではそれを何の疑問もなく受け入れていたはずなのに、もう今となってはこの世界で自分がどう生きていっていいかさえわからない。そして思う、あの世界に帰りたいと。

なぜなら、ずっと帰りたいと思っていた場所で待っていたのは、過酷な現実だったから。

帰還の喜びも束の間、乗客たちの個人情報は容赦なくネットに晒された。直哉は弟・達哉(池田優斗)の過去の犯罪歴まで暴かれ、畑野紗枝(上白石萌歌)は職場を追われた。渡部玲奈(古川琴音)が心を許した明石周吾(宮崎秋人)はまさかの既婚者で、江口和真(日向亘)と佐藤小春(片岡凜)は妊娠について両親から厳しい反対を受けていた。しかも、未来を見てきたのだという彼らの主張を信じる者は誰もいない。現実は、決して明るくなどなかった。

それどころか、好奇の目はやがてバッシングへと変わる。消防活動をネット配信者たちに邪魔された白浜優斗(赤楚衛二)は、記念写真を撮ろうとする一般人を突き飛ばす。その場面だけを切り抜いた動画が拡散され、炎上。「イケメン消防士」から一転、誹謗中傷の標的となる。

正直、このあたりの展開は首を傾げるところだ。いかに炎上社会とは言え、こうした場合、炎上するのは優斗ではなく、消防活動を邪魔した人たち。一部だけを切り抜いた動画が拡散し誤解を招いたとしても、最近のインターネットはすぐに一次ソースをもとに訂正が入る動きが強い。一連の描写が優斗を窮地に陥れることを目的としたご都合主義的な運びに感じられて、かえって没入感を欠いてしまった。

一方、劇中に登場した、いわゆる「トレンドブログ」と呼ばれる、流行りの人物やワードを、特に取材・確認することもなく、ネット上に落ちている情報だけを集めてもっともらしく記事化する方法は近年横行しており、問題となっている。人の中にある下卑た野次馬根性は、いつも次の獲物を探しているのだ。

なぜこんなことが起きるのかと言うと、その理由がコンビニで直哉がつぶやいた「こんなにあったら選べねえよ」にある気がする。

現代人は飢えを知らない。もちろん貧困に苦しむ人たちがいることは前提として、それでも多くの人は命の危機を感じるほど明日の食事に困ってはいない。いつも僕たちは満腹状態だ。

そうすると、人が本来持つ「飢えを満たしたい」という欲求はどこへ向かうのか。きっとその矛先が他人の不幸や美談なのだろう。ご近所の噂話から芸能人のスキャンダルまで。自分とは何ら関わりのない他人のセンシティブな事情を食い物にして、骨までむしゃぶりつくし、飽きたら途端に興味を失い、次の生贄に飛びつく。

これが、直哉たちのいたような荒廃した世界だったら、他人の個別事情になどいちいち構っていられない。それよりも大事なことが他にたくさんあった。でも現代はあまりにも物資が豊かすぎて、それが結局精神的な貧しさを引き起こしている。

何もないけれど、生きるのに必死だった未来と、物はたくさんあるけれど、代わりに大切なものを失ったように見える現代。本当に豊かと言えるのはどちらなんだろうと、『ペンディングトレイン』は問いかけている。

山田裕貴の演じる役を「本当に生きている」と感じる理由

そんな第9話を牽引したのは、やはり山田裕貴だった。

多くの乗客が大切な人と感動の再会を果たす中、自分を迎えに来てくれる人はいない。その事実に少し傷ついたあと、当然だと受け止めて、いつものように皮肉に笑って胸の痛みを誤魔化そうとした瞬間、目の前に達哉と三島すみれ(山口紗弥加)が現れる。

あのときの感情の崩れ落ちていくさまは、画面越しに視聴者の首根っこをグッと引き寄せるような引力があった。吐く息が震えて、顔がぐしゃぐしゃに歪む。泣こうとして、泣くんじゃない。気持ちが止まらなくて、それが涙となって表出する。感情が昂り、血がグッと頭に上っているのが、まるで透けて見えるみたいな泣き方だった。

病院で優斗と紗枝に別れを告げるときも、「ありがとう」とは言わずに「感謝感謝です」とあえてふざけたような言い方をしてしまうところが皮肉屋の直哉らしい。寂しさを感じていることを自分自身が認めたくないような素直になれない雰囲気が、見事に表現されていた。

もちろん橋の上での優斗との対峙も良かった。赤楚にだけ強く照明が当てられ、山田は薄暗がりの中に沈んでいる。そんな明暗の対比を演出でわかりやすく見せる中、「最低だよ」と吐き捨てて優斗に向けた眼差しが、嫌悪に満ちているのに、どこか寂しそうで、つい胸が奪われる。

山田裕貴の演技は、感情が一色ではない。いろんな感情がせめぎ合っている。その不器用で、切実で、ぎこちなくもあり、美しくもある感情の格闘が、人間本来の息吹を感じさせて、だから山田裕貴の演じる役を多くの人が「本当に生きている」と称賛するのだろう。

優斗は「なんでそんな死んだ目をしてる」と言った。すると、直哉はそこからあえてつくったように虚ろな目をした。まるでそういう自分でいた方が楽だから、とでも言うように。いつもそうやって直哉は自分の心を守っていた。そう観る者に思わせるくらいの解像度の高さで、役の感情のグラデーションを見せてくれるのが、山田裕貴という俳優だ。

GP帯連ドラ初主演という、役者人生のひとつの碑となる作品で、山田裕貴は培ってきた技量と熱量を存分に見せつけてくれた。

残るは最終回のみ。どこか山田裕貴自身と重なって見えるようなこの萱島直哉という人生をどう生き抜いてくれるだろうか。