いつまでもみんなが笑顔で牛丼を食べられますように…『エルピス』が視聴者に与えてくれた“希望”の効能

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いつまでもみんなが笑顔で牛丼を食べられますように…『エルピス』が視聴者に与えてくれた“希望”の効能

エルピス―希望、あるいは災い―』(カンテレ・フジテレビ系、毎週月曜22:00~)が、12月26日に最終話を迎えた。全話通して思ったのは、本作は脚本、俳優陣の演技、演出、音楽……など、総合芸術としてのドラマのひとつの到達点であったということ。同時代性や即時性はテレビの武器。時代を写す鏡としての役割も担いながら、この時代に地上波の電波で放送してくれたことに改めて感謝したい。しっかりと社会を見据え、そこに真正面から武骨にぶつかっていく素晴らしいドラマだった。

浅川恵那が真の報道人となる日

報道には元来、使命がある。1、事件・事故・政治・災害を知らせること。2、困っている人(弱者)を助けること。3、権力を監視すること。

現実でもテレビにおいてその言葉が皮肉に聞こえるようになったのはいつからだろう。ニュースがワイドショー化し、コメンテーターとよばれる人が権力側の立ち位置で発言しだしたのは。ニュースキャスターやアンカーが公権力批判を含めた自分の意見をはっきり主張したことで番組を降板させるようになったのは。「歯向かうと痛い目にあうぞ」といわんばかりの圧力あるのが当たり前にあるなかで、忖度・迎合・問題意識のなさが蔓延しすぎてしまっているメディア現状は今の続いている。

岸本拓朗(眞栄田郷敦)と村井喬一(岡部たかし)の手の内にある、大門雄二副総理(山路和弘)による派閥議員のレイプ事件もみ消しという大きなネタも、現実と同じで世に出すことがためらわれるものだった。それを扱うことが何を意味するか、大門亨(迫田孝也)の死で明白になってしまったから。

最終話の浅川恵那(長澤まさみ)は、正真正銘のニュースキャスターだった。大門のスクープをトップニュースで報道するという恵那に、同期の滝川雄大(三浦貴大)が何度も「正気か?」と尋ねるシーンは今の時代の報道姿勢をそのまま反映している。しかし、どんなに狂っているように周りから見られても、今ここで一番「正気」でいる人間こそが恵那だった。

こんなネタの放送は「できるわけない」と言い張る滝川に対して、恵那が「できるかどうかを相談してるんじゃなくて、やるの、私」と返したのは本当にかっこよかった。本来は番組が責任を持って報じる使命があるはずだが、恵那は自己決定の自己責任において「正しい報道」を成し遂げようとしている。

表に出る真実と、再び闇に沈む真実

番組放送直前、斎藤正一(鈴木亮平)が現れ、大門のネタを取りやめるよう交渉する場面は息を呑むものだった。もっともらしい、巧みな言葉での説得はさすが斎藤。説得力のある声で、目ヂカラの強い表情で。この内容をワイドショーで目にしていたとしたら、言いくるめられて納得してしまう視聴者はとても多いと思う。やはり斎藤という男は、その才能がある。

しかし、実際に斎藤のその言葉を活字のみで捉えてみると、集約や省略が大ざっぱ過ぎて、現象の本質に関する内容の精確さや適切さを無くしているように感じた。「しかるべき力がついたときは、今日君が言ったことにかならず答えてみせる」というのも、詭弁にしか聞こえない。私たち視聴者も、こういう人の言葉こそ注意深くあるべきなのかもしれない。

斎藤の言葉に対して恵那が出した条件が、本城彰(永山瑛太)の逮捕。そして捜査や報道に対する不介入と、大門のスキャンダルは交換される。拓朗がつくりあげた調査報道は、ついに日の目を浴びることとなった。ほかのメディアも追随する形でこれを報じただろう。

時は経ち、晴れて松本良夫死刑囚(片岡正二郎)の冤罪は証明された。 チェリーこと大山さくら(三浦透子)とまた一緒にカレーとケーキを食べる様子は、物語の起点を思えばこそ、ハッピーエンドを体現するにふさわしい。

しかし、その光の影で握りつぶされた真実はまたひとつあることを私たちは忘れてはいけない。大門によってもみ消されたレイプ事件の被害者の軸からみれば、真実が表に出ることなく終わるこの結末はバッドエンドなのだから。

そのことは、恵那も、拓朗も、村井も理解しているはず。自分たちが追求した真実と、選択できなかったもうひとつの真実の重大さを、ずっと背負っていくことになるだろう。

でも、その事実はそれぞれの今後の仕事の、生き方の指針となるはずだ。権力やそれに準ずる力のある人の声は放っておいても響き渡るが、名もなき人たちの小さな声は世間には届かない。それを知っているからこそ、これからは小さな声を拾い上げる仕事をしてくれると信じている(恵那は2020年以降の出来事を『ニュース8』でどう報道しただろう)。

希望のバトンを受け取ろう

「希望って、誰かを信じられるってことなんだね」と恵那は言った。その信頼を裏切ることは、人から希望を奪うことになる。今、私たちはいろいろなものから信頼を裏切られ続け、なにかを信じるということが難しくなってきている。ある人はテレビは信用できないと言うだろう。ある人は政治を。経済を。自国を。隣国を。

だけど本当はみんな、ちゃんと信じたいと思っているのではないだろうか。目の前の人のことも、その人々が生きる国のことも。バカみたいにまっすぐに信用していたいはずだ。

全部は無理かもしれないけど、たとえば同じ思いを共有できたり、共闘できる誰かがいれば、それだけで希望になるかもしれない。恵那にとって拓朗がそうだったように。

首都新聞・政治部記者の笹岡まゆみ(池津祥子)がその後大門に食らいつき質疑していたのも、恵那たちから希望のバトンを受け取ったからだろう。そうやって信じられる人が増えていけば、希望の輪はどんどん大きくなる。それはやがて大きなものを動かせるかもしれない。

このドラマから託された希望のバトンを、私たちも受け継いていかなければならないのだと思う。信じた仲間たちと大盛り牛丼をおいしく食べるためにも、自分もまっとうな人間であり続けたい。

最後に、この企画が無事に制作され、無事にオンエアされ、そして無事に最終話を迎えられたこと自体が真のドラマであったと思う。最終話のエンディングは、エンドロールとして制作に関わったすべての人の名前が画面いっぱいに流れていた。キャストを始め、番組制作に関わったすべての人たちに拍手を。もう少し、テレビや報道の力を信じてみたくなった。そこにもまだ、希望があるはずだ。

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