『初恋の悪魔』たった一度の「好き」で人は何十年でも生きていける

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『初恋の悪魔』たった一度の「好き」で人は何十年でも生きていける

たった一度の「好き」という言葉だけで、これから先、何年でも、何十年でも生きていけることがある。

鹿浜鈴之介(林遣都)にとって、あの「あなたのことを好きになりました」は一生のお守りだ。

「目の前にいる人が今にも『あなた、変だよ。なんか気持ち悪い』。そう言い出すんじゃないかと思って、存在を消してしまいたくなる人がいるんだよ」

そう言って、ずっと人を恐れていた鹿浜に、摘木星砂(松岡茉優)は言ってくれた。「あなたはとても素敵な人です」と。

「素敵」という言葉はどうしてこんなにも森の奥の湖みたいにキラキラと煌めくんだろう。どんな言葉よりも、存在を肯定してくれる気がする。

初恋の悪魔』は自分らしさを迫害されてきた人間が、恋をすることで自分のまま生きていく強さと優しさを知る、あたたかくて切ないラブストーリーだった。

誰かと一緒にいるときのわずらわしさを「いとしさ」と呼ぶ

最終話は、連続殺人事件の顛末は早々に片づき、摘木星砂の中にある2つの人格の決着に力点が置かれた(本稿では、スカジャンの摘木星砂を摘木、もう1人の人格を星砂と表記する)。

目を覚ますと、もう星砂の人格は消えていた。状況説明を求める摘木に対し、その役目を馬淵悠日(仲野太賀)に委ね、鹿浜はお手洗いにと言って席を外した。いつもそうだ。椿静枝(山口果林)からの手紙を読んだときも、「ちょっとおしっこ行ってきます」と言って、彼はひとりで泣いた。人に気を遣いすぎる彼は、人前では泣けない。ここで泣いたら、摘木を困らせるから。今いちばん泣きたいのは、愛しい人が帰ってきた悠日だから、ここでは泣かない。そういうやつなのだ、鹿浜鈴之介は。

退院した摘木は悠日と一緒に鹿浜の家に転がり込む。靴下を脱ぎっぱなしの悠日と摘木。後日、2人がいなくなった家で、鹿浜は1人分の食事をつくる。醤油の奪い合いにはならないし、食事中にニュースを流したりもしない、静かな食卓。平穏な生活が戻ってきたはずだった。

2人がいるときは賑やかすぎて、虫の音にすら気づかなかった。でも、2人がいなくなったリビングは静かで、鈴虫の鳴き声がいやに耳につく。まるで星砂と過ごした夏はもうとっくに過ぎ去ったのよ、と教えるみたいに。

鹿浜は静寂と退屈を振り払うように、靴下を部屋中にばらまく。わずらわしさとは、ひとりでいるときは感じないものだ。誰かといるから、わずらわしいと思う。そして、誰かと一緒にいるときに感じるわずらわしさを、別の名では「いとしさ」と呼ぶ。

鹿浜はいとしさを知ってしまった。だから今まで通りにはもう戻れなかった。あんなに心地よかった孤独が、今では他人みたいに自分を突き放す。もう1人で「CHE.R.RY」は歌えない。このあたりの鹿浜の描写はどれも痛切で、細い針で心臓を刺されるみたいだった。

せめて楽しい思い出が残るように、2人は笑い続けた

鹿浜は、自宅捜査会議のときのように、1人でジオラマをつくる。そこに、鹿浜、悠日、摘木、小鳥琉夏(柄本佑)の人形を並べる。最後に並べた5人目の人形は、星砂だ。まるでそこに星砂がいたことを証明するように。誰が忘れても、自分だけは忘れないと誓うように、鹿浜は星砂の人形を置く。彼女と過ごした日々を想う。

その願いが届いたのだろうか。星砂がやってきた。2人は風の気持ちいい夜を散歩する。風が気持ちいい日は家にいちゃダメだから、遠回りするように散歩をする。

大きい犬に吠えられた話。需要と供給の合わないトイレの話。どれも、そんなに大笑いする話じゃない。でも、2人は大笑いする。別れの予感を振り払うように。いや、違う。これが最後だとわかっているから、いつもより笑った。せめて楽しい思い出が残るように、と。

「螺旋階段」「首を振る扇風機」と2人は好きなものを挙げていく。坂元裕二の作品はよくこうした場面が出てくる。たとえば『Mother』でも奈緒(松雪泰子)と継美(芦田愛菜)が別れ際に「電車の中で眠ってる人」「靴箱からはみ出してる長靴」と好きなものを挙げ合っていた。坂元裕二にとって好きなものを挙げることは、心を許し合った証であり、特別な愛情表現なんだろう。きっと、鹿浜と星砂も――。

居なくなっても、居続ける。恋とはつまりそういうものなのだ

最終話は、林と松岡が柱となった。「あなたのことを好きになりました」と星砂から告白された瞬間、鹿浜は感情がこぼれ出そうになって、思わず両手で顔を覆う。林遣都の芝居はいつも感情が噴き出す瞬間が鮮やかだ。切り傷から真っ赤な血が溢れるように、喜怒哀楽が瑞々しく放出する。その作為めいたところがまるでない反応に、人は心を掴まれる。

それは、鹿浜鈴之介という、生きるのが少し下手くそな、でも誰より心優しい人間がこの世にいるんだと、視聴者に思い込ませる演技だった。だから、生きづらさを抱えるたくさんの人たちが、林の演じる鹿浜に心を寄せた。

林は、自尊感情の低い役どころがとてもよく似合う。その理由は、彼の誠実さにある気がする。役に寄り添い、その人が生きてきた痛みも絶望も真摯に汲み取ろうとする。役と同じ目線で世界を見る敬意と愛情が、彼の演じる役どころに実在の人物のような息吹を吹き込むんだと思う。

対する松岡茉優も素晴らしかった。最終話では、淡野リサ(満島ひかり)との喫茶店のシーンは特に良かった。そこには星砂のことを「蛇女」と疎んでいた摘木はいなかった。星砂としての意識はないはずなのに、細胞のどこかに星砂として生きた日々が残っていて、それが彼女をほんの少し変えたような気がすると想像させる演技だった。松岡が演じると、人間が一面的にならない。多層なグラデーションによって人間は成り立っているのだと思わせてくれる。

星砂としてのラストシーンも胸を打つものがあった。手を振った瞬間、走り出すあの表情。この物語で最も孤独なのは、間違いなく星砂だ。自分がいなくなる恐怖といつも星砂は隣り合わせだった。走り出したあの表情に、鹿浜と出会えた喜びも、もう会えなくなる悲しみもつまっていて、胸がはち切れそうだった。きっと多くの人たちが、鹿浜と同じような喪失感をあそこで味わったと思う。

もちろん男の哀愁を切実さとユーモアをブレンドしながら体現し続けた仲野太賀も良かったし、癒し枠として最後までこの作品の遊びの部分を下心なく担い続けた柄本佑も素晴らしかった。うまい脚本とうまい俳優が揃った上質なドラマだった。

ラストはお約束の自宅捜査会議で幕を閉じる。そこに星砂はいない。でも決して鹿浜は落ち込んだ顔なんて見せない。約束したのだ、元気でいると。

でもやっぱり今まで通りでもない。たとえどんなに仲の良い友達といても、孤独を感じるときはある。友達では埋めきれない寂しさがある。かすかに胸の痛みが残るのは、愉快な自宅捜査会議に、そんな孤独を見てしまったから。

それでも鹿浜は自分らしく生きていく。「あなたはとても素敵な人です」。そう言ってくれた初恋の人との思い出をお守りにして。

居なくなっても、居続ける。恋とはつまりそういうものなのだ。

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