「履く人への思いを込める...」足袋を愛するアメリカ人女性が老舗で作り方を学び、職人の思いに感動の涙...さらに驚きの進化を遂げていた:世界!ニッポン行きたい人応援団

公開: 更新: テレ東プラス

ニッポンに行きたくてたまらない外国人を世界で大捜索! ニッポン愛がスゴすぎる外国人をご招待する「世界!ニッポン行きたい人応援団」(月曜日夜8時~)。毎回ニッポンを愛する外国人たちの熱い想いを紹介し、感動を巻き起こしています。今回は、「ニッポンにご招待したら人生が変わっちゃった! 感謝のビデオレターが届いちゃいましたスペシャル」をお送りします。

履きやすさと美しさを考えた足袋作りと、こはぜの工程を学ぶ

紹介するのは、アメリカ・シアトル郊外に住む、足袋を愛するアマンダさん。

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平安時代の武家が履いた皮のはきもの「単皮(たんぴ)」が発祥といわれる足袋。江戸時代に、今も履かれている木綿の足袋が誕生し、庶民にも普及しました。着物に合わせる白足袋の他、屋外で履ける地下足袋や、和服姿を美しく見せるヒール足袋などもあり、「東京2020オリンピック」の聖火リレーでは、大河ドラマで日本初のマラソン選手を演じた中村勘九郎さんが、足袋を履いて登場しました。

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アマンダさんは高校生の時、先生に借りた着物に一目惚れして以来、和装をするようになり、足袋の虜に。「形が靴下よりも美しいので、履いているだけで背筋がすっと伸びるんです。こんな履物はニッポンならではだと思います」。結婚式も地元にある神社で、白無垢を着て挙げたほど。しかし、まだニッポンには一度も行ったことがありません。

息子・ブライアンくんの足袋を作るところを見せてもらうと、柄の入った布を使っていました。「江戸時代までは職業や性別によって、いろんな色の足袋を履いていたんですよ」とアマンダさん。例えば、黄色の足袋は歌舞伎十八番の一つ「助六」の主人公も着用した、粋な男の象徴。藍染された青い足袋は、藍の匂いを蛇が嫌うため、狩人が履いていたそう。アマンダさんが足袋を一足作るのに要する時間は5時間ほどで、ブライアンくんもお気に入り。

独学で足袋作りを始めて6年、アマンダさんには悩みがありました。つま先を縫うのが難しいことと、こはぜが手に入らないことです。こはぜとは、足袋の合わせ目を留める爪型の金具。アメリカではどうしても入手できず、ボタンで代用しています。

そんなアマンダさんを、3年半前、ニッポンにご招待!

向かったのは、東京・四谷にある大正時代から90年以上続く足袋屋「むさしや」。足袋作り一筋57年、三代目・大橋信彦さんが快く受け入れて下さいました。早速、アメリカで作っている足袋を見ていただくと、「すごい、よく作りました」と大橋さん。お褒めの言葉をいただき、笑顔が溢れます。ここで、つま先を立体的に縫うのが難しいという悩みを相談します。実は、つま先の縫い方は、足袋作りにおける最大の難関。10年以上の修業を積み、初めて任される工程なのです。

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アマンダさんに合う足袋を作り、勉強させていただくことに。まずは足の採寸。江戸時代、足のサイズを計る際に一文銭を使ったことから、現在でも足袋のサイズは「文(もん)」で表します。1文は2.4cmで、採寸するのは、指周りと甲の高さ、親指の第一関節の高さなど、合計13ヵ所。「これだけ緻密に計るから、立体的な足袋が出来上がるんですね」。

次に足型をとって設計図を描いていきます。足底と左右の甲型の3つのパーツを縫製して作る足袋。そのベースとなるのが足底です。足底の設計図には、人差し指の内側の角度を示す斜めの線が引かれています。アマンダさんは足の内側に向かっていますが、人によって角度は様々。この角度に合わせてつま先を縫うと、抜群のフィット感が生まれるそう。甲の部分も立体をイメージして型紙を作り、土踏まずの形に合わせて底をカーブさせます。これも、フィットさせるための工夫です。

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続いては、丸包丁を使って型紙を足の形に切り出していきます。丸包丁とは、江戸時代に使われていた万能包丁。鋭い先端はカッターのように使うことができ、丸まった刃全体を使えば、重なった生地を滑らかに切ることが可能です。この丸包丁で、足袋の要となるつま先の角度を0.1mm単位で調整します。

足の型紙ができましたが、片足分を作るのに4時間を要しました。「履く人のことを思って作っているんですね」というアマンダさんに、「思いを込めるんです。思いとは愛なんです」と大橋さん。「涙が出てきそうです。これが職人さんの物づくりなんですね」と感動!

生地を足型に沿って裁断したら、こはぜをかける「かけ糸」作り。こはぜを支えるために細い糸を3本撚って、1本の太い糸にしていきます。一般的な足袋のかけ糸は直線ですが、大橋さんのかけ糸はカーブを描いています。これは、正座した時に足が窮屈にならないための配慮だそう。この日は、8時間ほどかけて工程が終了。アマンダさんは「大橋さんはとにかく気遣いの方」「採寸の細かさにビックリしました」と、1日を振り返りました。

続いて向かったのは、兵庫県丹波篠山市にある、創業102年の老舗こはぜ屋「青山産業研究所」。国内でも数少ないこはぜメーカーの一つで、四代目の青山佳司さんと、奥さんの佳代さんが快く受け入れて下さいました。

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こはぜの材質やデザインは多種多様で、足袋によって付ける枚数も様々。動きやすい4枚こはぜは、立ったり座ったりすることが多い仲居さんに重宝され、足首まで覆う5枚こはぜは、礼装や茶道、神道で使われています。

早速、こはぜを作る工程を見せていただきます。使うのは、丈夫で加工しやすい銅と亜鉛の合金「真鍮」。こはぜ製造機は二代目が開発したオリジナルで、昭和初期から90年使っています。

まずは板状の真鍮を機械に入れ、こはぜの形に型抜き。続いてこはぜの周りを真鍮の針金で囲んで補強し、安全性と強度を高めます。これは、「青山産業研究所」オリジナルの製法。最後に、天然のワックスともいわれる米ぬかを使い、専用の機械で洗浄。水で洗い流すと、汚れが落ちてピカピカに! これで、こはぜの完成です。

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その夜、青山さんのご自宅で、ご近所の皆さんが地元の名産品を持ち寄り、歓迎会を開いてくださいました。乾杯の後は、丹波篠山の名産、猪肉を使った「ぼたん鍋」や、山の芋を素揚げでいただき、「美味しい!」と舌鼓を打ちます。「素晴らしい皆さんに囲まれて夢のようです。こはぜが繋げてくれた縁だと、日本文化と足袋に感謝しています」。

別れの時。感謝を伝えるアマンダさんに、青山さんがこはぜ300枚をプレゼントしてくださいました。「こんなに足袋とこはぜを愛してくれる人はいません」と佳代さん。ご夫婦とハグを交わし、再会を約束しました。

再び「むさしや」に戻ります。この日は、アマンダさんが一番知りたかった、つま先の縫製を行います。つま先を縫うミシンは、1800年代後半、靴用に作られた外国製のミシンを、足袋や靴下の老舗メーカー「福助」が足袋用に改良したもの。このミシンを使い、指が入るように高さを出すため、生地を寄せて立体的に縫っていきます。

左手で生地を送り、右手で生地を寄せる幅を調整。この時に生まれるヒダが、立体的なつま先を作る秘密です。ヒダの高さにも違いがあり、親指の高さに合わせてミリ単位で調整することで、足にフィットするつま先が生まれるそう。

最後は縫い目を叩き、木槌で全体をならして完成。縫い目を叩くことで滑らかになり、履き心地が良くなるのです。完成した足袋を履いたアマンダさんは「こんな感覚は初めてです」と、履き心地の良さにびっくり!

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別れの時。大橋さんに貝の根付けを贈り、感謝を伝えるアマンダさんに、大橋さんは、アメリカで足袋を作り続けて欲しいという思いを込め、白足袋に加えて、職人にとっては門外不出の足型をプレゼント! 感動のあまり「言葉が出てきません。教えてもらったことは全てが私の財産です」。「期待しています、頑張ってください」という大橋さんと握手を交わしました。

あれから3年半。アマンダさんからのビデオレターを、大橋さん、青山さんの元に届けます。

アマンダさんは、帰国後も足袋を作り続けていました。いただいたこはぜを使い、型紙もたくさん作ったそう。「大橋さんが作ってくれた型紙は、大事な宝物です。教わったことは、できる限り実践しています」。

と、ここで報告が。実はアマンダさん、2年前、仕事でシアトルを訪れた青山さんご夫婦と再会を果たしていたのです! 当時青山さんは、こはぜの新たな利用法を探していたそう。そこで考えたアマンダさんは、こはぜを留め金に使った名刺入れを作り、ビデオレターと一緒に送ってくれました。「うまいことしてくれてはる」と青山さん。

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ここで、足袋作りを見せてくれることに。大橋さんに教えていただいた通り、足を細かく採寸して型紙を作り、布をカット。青山さんからいただいたこはぜを付け、いよいよつま先の縫製に入ります。市販のミシンで大橋さんが作るつま先になんとか近づけようと、針で一つ一つ山を作り、押さえながら縫い......最後に、かけ糸を縫って完成! 以前と比べると、つま先に膨らみができています。

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大橋さんから直接感想を聞きたいということで、足袋をニッポンに送り、遠く離れた絆をもう一度中継で結びました!

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大橋さんは、「大変素晴らしいです!」と絶賛。かけ糸やつま先も褒めてくださいました。ここでアマンダさんが、足袋をネットショップで売りたいと考えていることを相談すると、大橋さんは、糸が切れないように太い糸に変えて、ミシンも変えた方がいいとアドバイス。おすすめのミシンの型番も教えてくださいました。

そして最後に、大橋さんにどうしても伝えたいことがありました。日本で一番感動したのは、大橋さんの足袋にかける思い。「あの言葉を思い出すと、私は今でも涙が止まりません」というアマンダさんに、「偉そうなこと言っちゃった」と笑う大橋さん。いつか再会することを約束しました。

アマンダさんをニッポンにご招待したら、技術が向上し、作った足袋をアメリカで販売する夢に向け、動き出していました!

道場の皆さんとの交流を通じ、合気道の真の魅力を知ったアメリカ人女性

続いては、海外に暮らしながらニッポンのあるものが好きすぎて来日。そのままニッポンに住むことを決意した外国の方たちを応援する「ニッポン住んじゃった人応援団」をお届け。

紹介するのは、ニッポンに住んで6年になる、アメリカからやってきたメーガンさん。

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東京・新宿にある公益財団法人「合気会」に勤めているメーガンさん。「合気道本部道場」がある合気道の総本山です。

「合気道」は、伝統的な日本の古武道を極めた植芝盛平が、その集大成として創始しました。その特徴は、人間の身体的構造や運動法則を利用した合理的な技。柔道の創始者である嘉納治五郎は植芝盛平の技を見て感動し、自分の弟子を道場に派遣したといいます。試合がなく、力を使わずに相手を制する術であることから年齢や性別を問わず愛され、愛好者は世界140の国と地域に広がっています。

メーガンさんは12歳の時、いとこが通っていたシアトルの合気道道場を見学したことを機に合気道を始めました。道場に入門すると、すぐさま合気道に魅せられ、日本語も学ぶように。そして6年前、外国語指導助手として石川県の能登町に赴任しました。

ニッポンで合気道を習うために見つけたのが、隣の輪島市にある奥能登合気会輪島道場。そこで出会ったのが、今も師と仰ぐ師範・神谷正一さんでした。神谷師範のもとで3年稽古を積んだメーガンさんは、合気道に人生をかけることを決意。2年前、石川県から合気道の総本山である東京の本部道場にやって来たのです。

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そんなメーガンさんの1日を見せてもらうことに。朝5時前に家を出て、6時に本部道場に到着。メーガンさんは現在、初段で黒帯。ニッポンに来た当初は級を持っていませんでしたが、4年で初段までを取得しました。今は、近々行われる弍段の昇段審査に向けて、週6日稽古に励んでいます。

本部道場では、朝6時30分から夜8時まで1時間の稽古が1日5回開かれ、名だたる師範たちが指導にあたっています。この日の稽古を担当するのは、開祖・植芝盛平の孫にして合気道界のトップ、道主の植芝守央さん。稽古中は、道主が近くにきても、生徒は話しかけたり目を合わせたりすることができず、声をかけられて初めて、直接指導を受けられるそう。すると、メーガンさんが指導を受けました。後で道主に聞くと、小指を締めるように指導したとのこと。小指の筋肉は背中の大きな筋肉と繋がっているため、小指から握ることを意識するだけで、相手の身体を強く握ることができるのです。これは家事などをする際の日常生活にも活かすことができ、小指から握ると疲れにくくなるといいます。

稽古が終わり、朝8時に朝食。オートミールに冷凍ブルーベリーやヨーグルトなどを混ぜたものをいただきます。朝食後、いよいよ仕事がスタート。メーガンさんが所属する国際部は、海外の合気道団体との連絡や、外国の人からの問い合わせに答える窓口。他にも、道場の消毒や受付業務など、運営に関わる様々な仕事をこなしています。「合気会のスタッフは、何でもやるということが普通ですね」とメーガンさん。

続いてご自宅にお邪魔し、暮らしぶりを見せてもらいます。部屋は郊外のワンルームで1人暮らし。食材をカゴに入れ、アパートの隣へ。そこには、住人共用のキッチンが! この日は、ニュージーランド出身のティムさんと分担して、昼食を準備します。メーガンさんが取り出したのは、お好み焼きソース。ズッキーニに絡めて焼いたり、豆腐にかけたり、「本当に何でも使えます」。食後のアイスクリームにもかけて大満足! 

ここで、ティムさんと合気道の話になり、どんなものなのか試してみることに。身長が20cm以上大きいティムさんに、腕を掴ませたメーガンさん。その腕が大きく螺旋を描くと、ティムさんはソファーに倒れ込みました。「ちょっとびっくりしたけど、優しさも感じられるから面白いなと思う」とティムさん。

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なぜメーガンさんはここまで合気道を愛するようになったのでしょうか。この日、神谷師範と一緒に向かったのは、その原点ともいえる輪島道場。今でも月に1回のペースで稽古に通っています。実はこの輪島道場で、合気道への愛を深めた"ある出来事"がありました。

5年前、初めて輪島道場を訪れた時のこと。緊張のあまり、稽古が始まる1時間も前に到着してしまったメーガンさん。まだ誰も道場に来ていなかったため、正座で待っていました。その凛とした姿を見て、先輩が師範だと勘違いしたそう。

こうして鳴り物入りで入会したメーガンさんですが、本格的なニッポンでの稽古は想像以上にハードなもの。それでも「私の合気道への思いはそんなに簡単に折れない!」と必死で稽古を続けて半年、通常は、師範が段を持つ会員を相手に手本を見せる「見取り」の相手に、当時まだ白帯だったメーガンさんが指名されたのです。そこには「白帯の女性でも、きちんとここまでできるよっていうのをみんなに見てほしい」という神谷師範の思いがありました。メーガンさんは「とても嬉しかった」と振り返ります。

その日以来、本当の意味で輪島道場の一員になったメーガンさん。まだ日本語が充分に話せず、異国での生活に孤独を感じることもありましたが、輪島道場の皆さんとの合気道の稽古が心の拠り所になっていきました。
プライベートでも皆さんとお祭りや花火を楽しみ、当初は外国語指導助手の任期が終わる2年で帰国する予定でしたが、ニッポンに残ることを決意。「奥能戸合気会は、なんか本当に日本にいる家族」というメーガンさんの目には涙が......。「合気道とは敵と戦い破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」と説いた、開祖・植芝盛平。そんな合気道の真の魅力を肌で感じたメーガンさんは、人生をかけ、ニッポンに住む決意をしたのです。

その後、本部道場に戻ったメーガンさん。この日は、初段から弍段への昇段審査が行われます。その内容は、70種類以上ある技の中から、その場で指定された技を正確に行うというもの。残念ながら審査の様子は非公開ですが、審査を終えて手応えを聞くと「もっとできたらよかったな、というところもいくつかあります」とメーガンさん。2日後、審査結果が発表されると......メーガンさんの名前が! 道主から昇段証書を授与され、メーガンさんは嬉しそうに笑顔を浮かべました。

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と、ここで応援サプライズ! スタッフが手渡したのは、神谷師範の呼びかけで輪島道場の皆さんから寄せられた昇段祝いのメッセージ式紙。中央には、神谷師範が書いた「和やかな雰囲気」を意味する「和気」の文字が......。思いがけないサプライズに、感動の涙を流すメーガンさんでした。

「私が感じた合気道の魅力は、人との繋がりを作ることです。それを世界の人に知ってもらえるように、私は毎日頑張ります!」

メーガンさん、夢に向かって頑張ってください!

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