激動の人生を駆け抜けた”伝説のストリッパー・ファイヤーヨーコ”の生き様「奈落の底から這い上がれ!行動、ガッツ、奉仕の精神さえあれば、必ず道は開ける」

公開: 更新: テレ東プラス

――話は変わりますが、ヨーコさんは東日本大震災が発生した際、軽自動車に物資を積んで、支援に行かれたそうですね。

「そうですね。震災時、私を応援してくれていたお客様が、福島県のいわき市で取り残されてしまって……。地震で泊まっていたホテルを追い出され、交通手段も全て絶たれた状態でした。その後、原発の爆発の知らせが入り『私が行かなければ誰が行く!』と。 慌てて救援物資を軽自動車に山積みにし、福島まで車を走らせました。

被災地に行くのなら救援物資をと思いましたが、軽自動車に積める程度の少ない物資でから、一番困窮している所へ、どうせな原発に一番近避難所に行うと思いまし。ライター仕事もしていましたからビニール袋に入れた物資を一つずつお渡ししながらお話を聞かせてもらのですが、そこは原発作業員の方がたくさんいる避難所んです。地震発生直後、真っ先に来たライターが女の私だったので、さん相当ビックリされたと思いますが、信用していただのかいろいろな方からお話を伺うことができ、その後も彼らから次々と情報が寄せられ、潜入取材にも協力してくれました

――ヨーコさんの気さくで温かいその人柄が、現地の皆さんの心を開かせたのだと想像します。

「駅前にあるホテルの支配人さんが関東へ避難した後に、いわき市のご自宅を貸してくださったので、そこに泊まり込んで取材を続けました。あと、作業員の皆さんが食事をするパブ営業していたので、『食事だけ戴けたら給料はいらないので雇ってほしい。そのかわり取材をさせてもらえませんか?』とお願いしたんです。当時は食糧も満足に手に入りませんでしたから。夜はパブで働きながら、作業員の皆さんの生の証言を聞きました。早朝は原発作業員に紛れて潜入取材を繰り返しましたね。東京に帰ればお客様や踊り子仲間が集めくれた救援物資を積んで、た福島に戻るという日々でした

――現地は過酷な状況だったと思いますが、当時のヨーコさんの原動力となったものはなんだったのでしょう。

「『原発作業員の命を何だと思っているんだ!』という怒りからです。当時、原発周辺の状況を正しく伝える報道がほとんどありませんでした。 私がストリッパー兼ライターということもあり、大手の新聞社はどこも相手にしてくれませんでしたし、媒体も書けることが限られていました。でも、生の声が私のところに続々と集まってくる。『この真実をなんとか伝えたい』という使命感と、悔しさ、怒りがバネになっていたと思います

――私たちが、ヨーコさんのように“諦めない心を維持する”ためには、どうしたら良いのでしょうか。

何事も『やってやる!』というガッツが大事です。福島でも、私は後先考えずバッサリ髪を切り、胸をガムテープで縛って押えつけた上から防護服を着て、汗まみれになりながら取材しました。それも『絶対にやってやる』という思いからで、それは花電車の仕事に対しても、骨盤底筋体操の仕事にしても同じ気持ちです。毎回毎回『私がやらなきゃ誰がやる!』で突き動かされてますね。
私がストリップ劇場からライブハウスに
活動の場をしたのは50歳頃でしたが、それも『絶対にやってやる』という思いから。それまでは“伝説のストリッパー”と呼ばれて、ぬるま湯状態につかっていましたが、それを全て投げ捨て、今度は1からアングラの女王になってやろうと思ったんです。ガッツと行動、そこに奉仕の精神が加われば、上昇への歯車はカチッとかみ合います。私にとって奉仕の精神とは、お客様を楽しませる、後進への道筋をつけてあげることでした

――上昇するためには、“行動・ガッツ・奉仕の精神”という、3つの要素が必要だと。“行動”の部分が一番難しいと思いますが、そこに対するアドバイスはありますか?

「私がストリッパーとしてデビューしたのは30歳の時でしたが、当時、花電車の先輩が10人くらいいて、その人たちをゴボウ抜きにしなければ食べていけませんでした。30歳というと、ストリッパーとしては肩を叩かれる年齢で、デビューした時点で背水の陣。だからこそ『絶対にのし上がってやる!』というガッツが湧いてきて、とにかくあそこを鍛え抜くという行動を起こしました。
誰にもマネできないことをやってやろうと、スプーン曲げや鉛筆折り、ファイヤー芸を始めました。鉛筆折りは、最初は割り箸を折るところから始めましたが、割り箸は梅雨時になると湿気を含んで折れなかったり、斜めに裂けると膣内に傷がついたりするので、素直に折れてくれるものとして鉛筆折りをするようになりました。それも1本ではなく、3本、4本と増やし、最盛期は10本まで折れるようになったんです。
今はそこまでの筋力はありませんが、お客さんイジりやトークなどの変化球を磨き、生き残ることができました。いまだに私を超える人は出てきませんし、同じ技をできる人もいない。

中学校を3カ月でドロップアウトした人間が、なぜライターになれたのか? とりあえず行動に移してみたからです。そして無我夢中で突き進んだからです。 仕事も恋愛もどんなことも”どうせ私なんて”と思って諦めていたら後悔しか残らないんですよ。一生後悔するぐらいなら玉砕して次に進んだ方がいい。だからこそまず行動に移してみる。そして全で取り組んでみる。そこで手応えがあれば我武者羅に突進していく。自分の人生の扉は自分で開こうよということです。 人生の岐路の先は、後悔して泣いて暮らすか、成功するか、失敗するかの3通りしかない。行動に移すということは”後悔への道のりを一本消せる”ということ。人生の課題を3択問題から2択に自分で絞れるんです。例え失敗しても、燃え尽きれば立ち直りは早い。だからこそ行動に移してみることが重要だと思います。
行動
とガッツと奉仕の精神が合わされば、道は必ず開けます。これは何度も何度も奈落の底に突き落とされては這い上がってきた、私の55年の人生の中でわかった人生の方程式です

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――なんだか私も、希望が湧いてきました!(笑) 最後に、今後の展望について教えてください。

「将来についてはあまり深く考えていません。47都道府県ツアーが終わってひと息ついたら、次を考えようかなと思っています。
実は今まで、何度も舞台から離れたことがありますが、その度にこの道に戻される人生でした。一度引退した時は出版のお話もあり、ライター一本で食べていくつもりでしたが、震災による紙不足で全部ボツに。原発の取材でお金を使い果た、また舞台に戻りました。 自分で事務所を立ち上げ、他の仕事をしていた時期もありましたが、更年期特有のうつ症状を患い、2年ほど寝たきりで過ごしたので、その道も断たれてしまいました。記事も書けなくなってライターへの道も閉ざされました。その時も有り金を失ったので、舞台に戻らざるを得ない状況に。挫折に次ぐ挫折の連続ですよ。
他のことをしようとしても、必ず奈落の底へ、そしてまた舞台に戻される運命なのです。 多分『花電車芸人』というところにまだやり残した仕事が残ってるんでしょうね。 あまり自分の行く道は考えず、その時やれることを精一杯やっていく。いいことも悪いことも向こうから降りかかってくるし、どうせ避けられないのであれば、ジタバタしても仕方がない。その部分では達観していますね

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ショーを通してヨーコさんが伝えたいのは、“諦めずに立ち向かう勇気”。
コロナ禍を経て社会全体が変化し、年齢を重ねるにつれてできることが減っていく自分に、鬱々とした気持ちになることも多々あるが、ヨーコさんの話を聞いていると、そんな気持ちすらどこかへと吹き飛んでしまう。55歳となった彼女が全身全霊をかけ、奉仕の精神で臨むショーの根底には、そんなパワーが流れていた。

【ファイヤーヨーコ プロフィール】
ストリッパー、花電車芸人。特に股間から火を噴く芸を得意とし、これが名前の由来となった。最後花電車芸人」「伝説のストリッパー」と呼ばれている現在ストリップ劇場かライブハウスに活動場を移している。 コラムニストとしても活動。福島原発の事故後は写真週刊誌等に記事を掲載。現在もスポーツ新聞にコラムを持ち、2004年には『21世紀の「性器考」』(河出i文庫) を出版。 骨盤底筋体操講師としても活動し、自ら発案したメソッドを用いて、女性のための尿漏れ防止や産後のリハビリテーション、男性の勃起力回復に効果的な体操を考案。全国で講習会を行っている。 活動詳細やライブスケジュールは以下でチェックを

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(取材・文/みやざわあさみ)