ナイツ塙「漫才協会に入ったのが間違いだった」逃げ道なく地獄だった日々も:あちこちオードリー

公開: 更新: テレ東プラス

achikochi_audrey_20220326_001.jpg【配信終了:2022年4月6日(水)】動画はこちら

不用意発言禁止! 裸のトークバラエティ「あちこちオードリー」(毎週水曜夜11時6分放送)。3月23日(水)は、「実はオードリーと同期の2組」ナイツ塙宣之土屋伸之)と磯山さやかが来店。

M-1までは「めちゃくちゃつまんなかった」

ナイツは、オードリーと同じく2000年結成。「M-1グランプリ」で2008年から3年連続でファイナリストになり、漫才協会の役員を務めるなど、今や東京の漫才シーンを牽引する存在となった。

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ナイツのデビュー時、オードリーの事務所の先輩である塙の兄・はなわも「弟の方が面白い」と実力を認め、芸人たちの間でも噂になっていたという。若手ライブにナイツが出演する際には、噂の弟を見るため舞台袖に芸人が集結。ところが、オードリーが初めて見たナイツのコント「タクシー」は、「めちゃくちゃつまんなかった」と若林。ナイツ本人たちもコント「タクシー」が面白くなかったことを認め、「だから今、コント1本もやってないの」と早々に漫才に転向したのだそう。

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「M-1」をきっかけに漫才で注目されるものの、その後のテレビ進出についてはあまり考えていなかったという塙。オードリーはテレビで活躍していくと思うが、「ナイツはちょっと毛色違うから、浅草色を強くした方がいいかな」と考えたのだという。あれから14年、オードリーはテレビで売れっ子となり、ナイツは東京の漫才界を引っ張り、塙は「M-1」の審査員を務めるまでに。塙の予想も戦略もピタリとはまったのだ。

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今や漫才はレジェンドの域に達したナイツだが、「2006年くらいまでは、めちゃめちゃつまんなかったよね」と若林。すると塙も「お互い様だろ」と返し、お互い爆笑する。2組のブレイク前、2007年に合同ライブ「漫才米騒動」を開催するも、そこには辛い現実が!? 当時、若い女性たちにも大人気だった「爆笑オンエアバトル」(NHK総合)常連芸人たちのライブに対抗して開催したものの、こちらのライブのお客さんは「汚いおじさんしか集まらなかった」と若林。それでも、オードリーもナイツも「楽しかった」と懐かしむ。

ちょうどその頃、オードリーはズレ漫才、ナイツは言い間違え漫才と、ブレイクのきっかけとなる漫才の新スタイルを同時期に確立。2007年の「M-1」2回戦、ナイツがトップで通過した知らせを聞いたオードリーは奮起し、別日の2回戦でオードリーもトップで予選通過したのだという。若林は、その日は忘れられないと、当時のことを詳細に語った。

ナイツにとっても、その「M-1」2回戦は忘れられない出来事で、「初めてウケたって思った瞬間だった」と塙。しかし、ヤホー漫才誕生の前が一番しんどかったようで、普段弱音を吐かない塙が「次のライブ、ダメだったら辞めるよ」と言っていたと若林が証言する。

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当時のナイツは、お客さんはご老人ばかりの漫才協会の寄席と、若い女性の多い若手のライブの両方に出ていたが、どちらにもハマらず、「逃げ道ないと思ってホント地獄だった」と土屋。その後、落語芸術協会に入り毎日舞台に立つようになったことにより、ヤホー漫才がウケるように。同じ頃、オードリーもショーパブ「キサラ」で毎日漫才をやることでどんどん面白くなり、それを「漫才米騒動」で見ていた土屋は「励みになっていた」という。

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いい話が続く中、2002年、漫才協会に"入らされ"、ようやく2008年に売れたことに対し、塙が「そもそも漫才協会に入ったのが間違いだった」と毒を吐き始める。「漫才協会入ってなかったら、もっとワーキャーで早く売れてたかも」とボケる塙に、若林が「ワーキャーなんてあるわけねぇだろ!ツラ見たことあんのか自分の」と激しくツッコむ。長年の付き合いだからこその容赦ない掛け合いに爆笑!