『いちばんすきな花』今田美桜“夜々”が縛られる「女の子」という呪い

公開:
『いちばんすきな花』今田美桜“夜々”が縛られる「女の子」という呪い

昔から僕は女の子になりたいわけではなかった。でも、男としてみなされることがどうしようもなく辛かった。

そんなふうに、性自認に違和感があるわけではないけれど、性別がしんどい、という人は、きっと僕以外にもいるんだろうなと思う。

深雪夜々(今田美桜)もまた女の子でいることの辛さをずっと抱え続けていた。『いちばんすきな花』(フジテレビ系、毎週木曜22:00~)第4話は、ずっとお人形だった夜々が、ちゃんと人間になる回だった。

母の愛が、夜々の自己肯定感につながらなかった理由

夜々は、人が言ってほしい言葉を先回りする達人だと思う。本心でそう思っていなくてもいい。こういうふうに返したら、相手は満足するだろう。それがわかるから、ついその通りに演じてしまう。

その習性は、母・沙夜子(斉藤由貴)から来るものだった。自分が男の子同然に育てられてきたから、娘が生まれたら自分のできなかったことを全部させてあげたい。子育ては、時に過去への復讐になることがある。そこに悪意がないから余計に難しい。

女の子なんだから。女の子らしく。女の幸せを手に入れてほしい。そうやってお膳立てしたすべてを、娘も受け入れてくれると沙夜子は思い込んでいた。花屋の店員に娘の好きな色を聞かれて迷わず「ピンク」と答える。娘の部屋はソファもクッションもアースカラーが中心で、ピンクらしい色はほとんど見られないことに、母は気づきもしない。

夜々だって、愛されていることはわかっている。だけど、母親の愛が自分が「女の子である」ことに起因していることが辛かった。もしも自分が男の子だったら、こんなふうには愛してくれなかっただろう。そうわかるから、愛されることが自己肯定感にはつながらなかった。母が見ているのは、女の子としての私。女の子でなければ価値がない。

それは、美しい容姿ばかりを目当てにする他の人たちと同じだった。性別とか、外見とか、みんなが目を向けるのは属性ばかりで、自分の本質を見つめてくれる人は誰もいない。

「お人形にならないでね。夜々ちゃんでいてね」

潮ゆくえ(多部未華子)は言った。女の子でなければ母親に価値を認めてもらえなかった夜々がちゃんと存在を認めてもらえた瞬間だった。ゆくえのその言葉のおかげで、やっと夜々は母に言い返すことができた。

「ママのことは嫌いじゃない。好きだよ。好きやけど、嫌いなところがいっぱいある」

夜々は自分の性別も母親も完全に否定しているわけではない。だからこそ、難しい。いっそ手を放せたなら楽なのに、ちゃんと愛情もあるから苦しさが増す。この喧嘩で、母娘の問題が解決するとは思わない。でも、ちょっとでもいい方向に進めばいいな、と祈るように思った。

男女における「必要な区別」と「差別」のボーダーライン

それにしても、性別というのは難しい。立場によって考え方は異なるし、傷つけるつもりのない言葉が誰かを傷つけてしまうことがある。それくらい繊細なテーマだ。

男女平等をお題目に力仕事を任された先輩美容師の谷本杏里(ハマカワフミエ)は、「隅々まで男女平等な世界、想像してみ? 不具合多すぎて、逆にどっちも生きにくいでしょ」と本音をぶちまける。それに夜々は「必要な区別をしてもらえないって、何よりも差別ですよね」と同調した。

多様性に配慮したはずのジェンダーレストイレは、利用者が(特に女性が)性犯罪に巻き込まれる危険性が多分に孕んだものであったし、公衆浴場におけるゾーニングも大きな社会的議論を呼んだ。区別と差別は違うと思う。ただ、その線引きがどこなのか、まだ僕も正解を見つけられない。

女性は力が弱いからという理由でシャンプー係を外されることに、夜々が無力感とやりきれなさのようなものを覚える場面もあった。これは、「必要な区別」なのか、あるいは「差別」なのか。もしこれを不当と感じるのなら、店長から力仕事を任されることは逆に正当なものとして受け入れなければいけないようにも思える。たぶんこの点も人によって感じ方が違うだろう。

ゆくえ、春木椿(松下洸平)、夜々、佐藤紅葉(神尾楓珠)の4人組も、4人組のようで、今のところ2人組と2人組になることが多い。そして、その線引きは性別によって分けられている。

夜々が苦しさを感じたとき、咄嗟に頼ったのはゆくえだった。一方、椿と紅葉も、4人でいるときと2人でいるときの顔は違って、男2人でいるときの方がより砕けているようにも感じられる。

でもそれは不自然なことではないだろう。同性だから話しやすいことはあるし、同性だから気が休まることもある。男女の友情は成立するかもしれないけど、それは男同士の友情とも女同士の友情とも別物だ。

そういう意味では、椿が夜々の美容室に2度目の来店を果たしたのは、この4人の中で初めて男女のボーダーを飛び越えた瞬間だったとも言える。箱が凹んだパイの実の痛みさえ汲み取ってしまう椿は、夜々の傷を感じ取って、だから絶対にしないはずの2度目の来店をした。一生言わないと思っていた台詞をポロッと言ってしまったり、椿は3人と出会って、どんどん変わっていっている。

だが、ゆくえと紅葉はと言うと、どうもわからない。なんだか紅葉がゆくえに想いを寄せているようにも見えて、そこにあるのは友情なのか、幼なじみの愛着なのか、あるいは恋愛感情なのか。

雌雄同体のカタツムリになりたい深雪のいちばんすきな花は、アジサイ。カタツムリの居場所になる花。深雪にとってのアジサイは、あの4人組だ。この4人ははたしてカタツムリのままいられるのか。胸のざわめくような不安が忍び寄っている。

自分の弱さや繊細さは誰かを攻撃していい免罪符ではない

また、第4話まで終わって、うっすらと抱いていた違和感がはっきりとしこりになってきた部分もある。それは、4人が自分たち以外に向ける敵意だ。簡単に言うと、うまく社会を渡り歩いているように見える人たちに対する描写が、このドラマはとても悪意的だ。

夜々を美人として扱う人々や、紅葉を客寄せパンダとして利用する人々。彼/彼女らが露骨に悪人に仕立てられていることは、百歩譲って作劇上のフックとして、問題なのはゆくえたちもはっきりとそういう人たちを小馬鹿にしている場面が目立つことだ。

特に顕著なのは、ゆくえだろう。赤田鼓太郎(仲野太賀)の婚約者に対して「しょうもな」と毒づいたり、みんなと同じ気持ちになれない怖さを吐露するそばから「見えることだけで、幸せかどうか決めつける大人にならなかったから、それはよかったです」と、表面だけで決めつける周囲の人たちへの忌避感をほのめかす。そこには、自分はそういう人間ではないという選民思想が透けて見える。

自分の感受性は大事にした方がいいと思う。でもそれは、自分の合わない人の感受性を軽視していいことではない。

「当てはまらないものって不安なんだろうね」

既存の枠に当てはめられてしまう苦しさをゆくえと夜々は分かち合う。でも、このドラマは2人組になるのが上手い人たちを「陽キャ」と当てはめ、「陽キャ」は他人の痛みに対して鈍感で無自覚であると見ている。それもまた暴力だ。自分の弱さや繊細さは誰かを攻撃していい免罪符ではないのに、ゆくえは自分の生きにくさをどこかで盾にしてしまっている気がする。

そんな場所からは抜け出した方がいいよと思うけど、その場所が春木家というアジサイかはわからない。アジサイには毒があると言われている。居心地の良さという毒に冒されてしまわなければいいなと、どこか不穏な気配を4人に感じている。