『VIVANT』は異端でありながら王道のドラマだった

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『VIVANT』は異端でありながら王道のドラマだった

日曜劇場『VIVANT』(TBS系)が終わった。

豪華キャストに壮大なスケール。そして、巨額の予算。何から何まで連ドラとしては破格の作品だったが、終わってみると実に王道の「日曜劇場」だった。

王道のサラリーマンドラマでありホームドラマ

日曜劇場の歴史は古い。始まりは、1956年12月。今やNHK含め日本のドラマで最も長寿枠らしい。長い歴史を誇るが、大まかに分けるとジャンルは2つ。1つは「サラリーマンドラマ」であること。ビジネスの最前線で戦う企業戦士たちを労い鼓舞し、明日から始まる1週間のための英気を養うドラマ枠として愛されてきた。

日本とモンゴルという2つの国で大規模なロケを敢行した『VIVANT』。最終話は、テントが発見したフローライトをめぐって火花が散らされたが、テントVSバルカ政府のシーソーゲームはまさに国家レベルのサラリーマンドラマ。

駆け引き。寝返り。忖度。あらゆる権謀術数が渦巻く世界で最後に勝つのは「根回し」が上手いやつ。サラリーマンの世界ではそう決まっている。テントVSバルカ政府も、ゴビ(馬場徹)の裏切りで窮地に追い込まれたかと思いきや、西岡英子(檀れい)を取り込むというさらにその上を行く「根回し」でワニズ(河内大和)の策略を打ち砕いた。

デールを着てるからつい誤魔化されそうになるけど、この展開は完全に『半沢直樹』とかで100回観たやつ。まさにThe日曜劇場だった。

そして、日曜劇場のもう1つの得意ジャンルといえば「ホームドラマ」。要は、家族の物語である。終盤は、乃木憂助(堺雅人)、ノゴーン・ベキ(役所広司)を軸に家族の絆が色濃く描かれた。

日本への交渉の引き換えとして、ベキとバトラカ(林泰文)、ピヨ(吉原光夫)の身柄が日本に引き渡された。ベキは後継者のノコル(二宮和也)にすベてを託し、これまでの罪を一手に引き受ける覚悟を決めていたように見えた。

しかし、それはフェイクだった。ベキの本当の目的は、40年前に自分たち家族を見捨てた上官・上原史郎(橋爪功)への復讐。それを察知した憂助がベキらを射殺。父の復讐は、息子の手によって阻止されるという結末となった。

だが、その結末すらどうやらベキの筋書き通りだったらしい。最初からベキの銃に弾は入っていなかった。ベキは、憂助が追ってくることを見込んだ上で、息子の手によって葬り去られることを自ら選んだのだった。

どんな大義を掲げようと、その手で多くの人の命を奪ったのは事実。結局、憎しみは何も生まない。ならば、この血塗られた連鎖は自分の代で止めよう。息子たちの時代には、美しい未来を残したい。ベキのとった行動はすべて息子たちへの愛が起点にあった。『VIVANT』は、父から息子への愛の物語だったのだ。

オヤジぃ。』『おとうさん』『とんび』『おやじの背中』『流星ワゴン』など、父と子の物語は日曜劇場の十八番。原作・監督の福澤克雄自身は、それほど多くホームドラマを手がけてきたわけではないが、代表作のひとつである『華麗なる一族』は父と息子の因縁の物語だ。山崎豊子の原作以上に、ドラマでは父と息子の相剋に焦点を当てている。そういう意味でも、憂助とベキの関係もまた実にThe日曜劇場だった。

様々な考察を生み、連ドラの枠を大きく拡張させた『VIVANT』。手法は異端ながら、これだけ多くの人を熱狂させたのは、その背骨がどこまでも日曜劇場の定石を抑えた王道的なつくりだったからではないだろうか。

日本礼賛か。それとも美徳を失いつつあるこの国への警鐘か

そして、最終話を終えてなお新たな考察を生み出した。最も反響を巻き起こしたのは、ベキの死をノコルに報告するときに憂助が口にした「皇天親無く惟徳を是輔く」。きっとあの瞬間、多くの人がこの諺を検索しただろう。意味は「天は公平で、特定の人をひいきすることはなく、徳行のある者を助けること」。

つまり、憂助はベキたちに裁きを下したように見せかけて、多くの孤児たちを救うなど、計り知れない徳を残したベキたちの命を助けたのではないだろうか。上原の邸宅に火をつけたのも、ベキの生死をわからなくするため。もしベキが生きているのだとしたら、「花を手向けるのはまだ先にするよ」という憂助の台詞も頷ける。結局、最後の最後まで憂助に一杯食わされ続けたようだ。

元凶であった上原がのうのうと生き延びたことにフラストレーションを感じる部分もなくはないが、野崎守(阿部寛)が「別班はどこにいるかわかりませんからね」とほのめかすことで、牽制的な機能は果たされた。悪事を働いていると、いつか別班の制裁がくだる。ある意味、令和の必殺仕事人と言っていいかもしれない。

ただし、これはもう完全に個人的な意見だけど、別班の大義が「国を守る」「国益」であることがどうしても乗り切れなかった。憂助の「日本の重責を担う方を殺させはしない」という台詞も、権力者におもねるようで引っかかった。まあ、そんなところも国家という組織に仕えるサラリーマンドラマらしいと言えばサラリーマンドラマらしいのだけど。

憂助は「美しい国」というフレーズを何度も連呼した。それを補強するようにベキもまた日本がいかに多様性を尊重できる民族であるかを強く唱えた。しかし、実際に現代の日本で生活をしている人間のひとりとして、この国がそんなに美徳ある国には思えない。「仁・義・礼・智・信」という儒教の教えが日本では古くから受け継がれているが、はたして今の日本がどれくらいその精神にのっとって行動しているのか。胸を張って頷ける人はそんなに多くない気がする。

盲目的な日本礼賛なのか。それとも今の日本が古き良き日本の心を失いつつあることへの警鐘なのか。最後まで意図が読みきれない居心地の悪さは残った。きっとそれは視聴者一人ひとりが考えていかなければいけないことなのだろう。

そんなむず痒さはあるものの、久々に普段ドラマにあまり馴染みのない人にも「『VIVANT』というドラマが流行っているらしい」という熱気が伝わる、強い訴求力のあった作品であったことは間違いない。ドラム(富栄ドラム)というマスコット的な人気キャラクターが生まれたことも特筆すべき点だ。富栄ドラムは一体いつ地上波で肉声を披露するのか。その歴史的瞬間も大いに気になる。

個人的なMVPはチンギス(Barslkhagva Batbold)に贈りたい。当初は憂助らを追いつめるヒールポジションだったはずが、いつしか頼れる味方となっていた。最終話では、テントの運営する孤児院出身であることが明らかに。警察官という立場でありながら、日本へと送還されるベキを平伏で見送る姿には胸熱くなるものがあった。あの光景こそが、ベキがバルカ共和国に残してきたものを象徴していたと思う。ワイルドさとクールさ、そして愛嬌が共存した得がたいキャラクターであり、日本に馴染みのないBarslkhagva Batboldという海外俳優の好感度を一気に爆上げした。

どうやらドラムに続きアクスタも発売したそうで、これを持ってモンゴルまで聖地巡礼したら、さぞ興奮することだろう。警帽をかぶり後ろ手を組む“お仕事チンギス”と、長髪をなびかせ銃を手に笑う“暴れん坊チンギス”。あなたは、どちらのチンギスがお好みですか?