カッコいい大人になれているか?『最高の教師』が投げかける問い

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カッコいい大人になれているか?『最高の教師』が投げかける問い

こんなにもつくり手たちの想いが伝わってくるドラマは珍しい。

今この時代に伝えたい言葉が、つくり手たちにはある。だから、こんなにもストレートに観る者の胸を打つ。

鵜久森叶(芦田愛菜)の死という衝撃の展開を迎えた『最高の教師 1年後、私は生徒に■された』(日本テレビ系、毎週土曜22:00~)。第7話は、その生き様にそれぞれが向き合う覚悟を描いた。

決断のときに大切なのは、その選択をした自分を許せるかどうか


『最高の教師』はこれまで主として今教室にいる子どもたちに向けてメッセージを送り続けてきたように思う。いつも人の顔色を窺って周囲に合わせばかりの江波美里(本田仁美)も、いつも変わり者扱いされて周囲と打ち解けられずにいた瑞奈ニカ(詩羽)も、教室で息苦しさを抱えている「誰か」の姿とそっくり重ねることができた。

けれど、この第7話はメッセージを向ける相手が明確に変わった。つくり手たちが焦点を当てたのは大人たちだ。かつて教室にいた子どもであり、あの頃は想像の世界でしかなかった未来を現実のものとして生きている大人たち。彼/彼女らに向けて『最高の教師』は問いかける。

あの頃思い描いた理想の大人になれていますか、と。

鵜久森が命を落としたあの日、一体何があったのか。九条里奈(松岡茉優)は、彼女の生き様と向き合わなければいけないと生徒たちに訴える。呼びかけに応えたのは、東風谷葵(當真あみ)ら数人の生徒たち。一方、推薦入試を控えた中園胡桃(寺本莉緒)や遠山泰次郎(岩瀬洋志)はこの問題と向き合うことで自分の未来を壊されたくないと反対する。

決して中園や遠山を責めることはできない。誰だっていちばん大切なのは自分自身だ。もちろんクラスメイトが亡くなったことは悲しい。けれど、シビアな言い方をすれば、偶然同じクラスに振り分けられただけの他人だ。そこまで親しかったわけでもない。アルバムのほんの1ページ、その中の小さなコマをひとつ埋めるくらいの存在でしかない相手のために、これから始まる未来のページを自ら破り捨てることなんて誰にもできない。

だから、里奈も中園たちを否定しなかった。そして、自分たちでどうすべきか考えて決めるように委ねた。ちゃんとわかっているのだ。大人に押しつけられた答えで子どもは動かない。自分で納得して選択した道を進むことでしか人は変われない。

このホームルームで動かされたのは生徒たちだけではなかった。カメラを通じて見守っていた教師たちもまたこれまでの自分のあり方と向き合わされた。そして、大人としてどうすべきかを考えた。

その象徴が、教頭の我修院学(荒川良々)だった。不在がちの校長に代わって職員室を束ねるものの、どこか事なかれ主義に見えた我修院。その日和見的な言動を鑑みれば、警察の見解に従い、鵜久森の死を事故か、あるいは自らの選択によるものだと結論づけることもできた。

だが、彼はそうしなかった。我修院もまた里奈の授業を通じて向き合わなければいけないと突き動かされたからだ。真相もわからないまま、曖昧な情報を鵜呑みにして、軽率に結論を出すことは、その人の尊厳を踏みにじること。もう弁明も反論もできない鵜久森に対して、それだけはしてはいけない。

だから、ひとりで記者会見の場に立つことを決めた。彼が里奈との対話を通じて思い出した教師になったきっかけは、きっと教職ならずとも、すべての大人たちに響く言葉だっただろう。

「先生、カッコいいって生徒たちから言われたかったんです」

みんな、カッコいい大人になりたかった。教室にいたあの頃、そう夢見ていた。少なくとも、ダサい大人になりたくないとだけは思っていたはずだ。上の意見に従い納得していないことを納得しているふりをしたり、保身のために人を裏切ったり騙したり、誰かの叫びに耳を塞ぎ、目の前で困っている人から目を背けたり。そういうカッコ悪い大人にだけはなりたくないと思っていた。

だけど、いつの間にか少しずつ自分がカッコ悪い大人に染まっていることに気づく。そして、その事実を認めることを恐れ、あの頃は青かったと10代の自分を笑ったり、大人になるというのはこういうことだと自分を正当化する。

そんな大人たちが溢れている今のこの世の中に『最高の教師』は問いかける。カッコいい大人になれているかと。目の前の子どもたちに目を逸らさず向き合える、あの頃の自分自身に胸を張って向き合える大人になれているかと。

きっとこれから我修院はとんでもない大渦に巻き込まれていくことだろう。それでも、きっと彼は後悔しないと思う。あらゆるマスコミの報道から盾になると決めた彼の姿はとてもカッコ良かったから。子どもを守るのが大人の役割なのだと、自分が責任者なのだと宣言した我修院は凛々しかった。責任をとれないリーダーがたくさんいるこの社会で、人の上に立つ者はかくあるべきだという理想像を見せてくれた。

きっと第7話を観た多くの大人たちが考えさせられたはずだ。もしも我修院と同じ立場に立ったとき、自分は同じようなことができるだろうかと。いつだってカッコいい大人になれるチャンスは用意されている。あとは、その道を選ぶかどうかなのだ。

そういう意味でも、3年D組の生徒たちが決めた選択もまたカッコいい大人への第一歩だったと思う。もしもあそこで自分の将来のために今目を伏せることを選択してしまっていたら、彼/彼女らもまたカッコ悪い大人の仲間入りをしていたかもしれない。

「自分の未来のために、大切なこと知らないふりした自分を、俺は今許せる気がしないから」

朴訥そうな蓬田健斗(夏生大湖)の言葉が、この第7話のすべてだった。今、何をすべきか。その決断をするときに最も大切なことは、その道を選んだ自分を許せるかどうか。問題と向き合うということは、すなわち自分自身と向き合うことなのだ。

死と向き合うのではなく、生き様と向き合う


また、ドラマとしても非常に繊細な配慮がなされていた。劇中、鵜久森の死について「自殺」や「自死」という直接的な単語は一切用いられなかった。これは間違いなく意図的なものであり、そこにはその言葉で傷つく人たちへの配慮が感じられた。

鵜久森についても、死と向き合うのではなく、生き様と向き合うのだと繰り返していた。似たようなフレーズに聞こえるが、まったく意味合いが異なる。ここにもまたつくり手たちの信念が表れている。

有名人の自死に関する報道が相次ぐ昨今、誰かの死を憶測で語ることの醜悪さについてもしばしば議論となっている。そのことについてもはっきりと「最も避けるべきなのは、彼女を憶測で語ること」「思う。だろう。違いない。その言葉で彼女を語ることは、言葉を失ってしまった人への冒涜だと思いませんか」と糾弾した。

『最高の教師』は、今の世の中と向き合った上でつくられたドラマだ。だから、今この時代に必要な言葉が紡がれていく。

その真摯さこそ、このドラマの最も信頼できる美点だと感じている。