日本史上の謎! 坂上田村麻呂が残した伝説の「壺の碑」の正体を追う!

テレ東プラス

aomori_20200307_00.jpg
青森県で発見された「日本中央」の文字が刻まれた巨石。果たしてこれは、伝説の「壺の碑」なのか? その真贋に迫るため、石碑が出土した東北町に残る伝承にアプローチした。

伝説の「壺の碑」はどこにある?

数々の和歌に登場する、「壺の碑(つぼのいしぶみ)」をご存知だろうか?

「行方の知れないもの」、あるいは「はるか遠くにあるもの」という意味を込めて用いられる歌枕で、この「壺の碑」について12世紀末の歌学者・藤原顕昭は、『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の中で次のように綴っている。

《いしぶみとは陸奥の奥につぼいしぶみあり、日本の果てといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付たれば、石文といふといへり》

現代語に訳すと、日本の東の果てに「つぼのいしぶみ」というものがあり、それは平安時代に征夷大将軍を2度務めた武官・坂上田村麻呂が弓のはず(弦をかける部分)を使って「日本中央」と彫ったものだと藤原顕昭は解説している。

では、「壺の碑」の現物はどこにあるのかというと、これは長らく日本史上の謎とされてきた。だからこそ、昭和24年(1949)に青森県の東北町で、「日本中央」の文字が刻まれた巨石が出土した際には、これぞ「壺の碑」ではないかと歴史学者たちは色めき立ったのである。

aomori_20200307_01.jpg▲「日本中央」の文字が刻まれた巨石

今から約70年前に発見されたこの石碑は、「日本中央の碑」として現在も保存、公開されている。高さ1.5メートルほどの自然石で、その表面には確かに「日本中央」の文字が見て取れる。

伝承が事実なら、これが彫られたのは坂上田村麻呂の活動時期に照らし合わせて、9世紀頃ということになるが......。果たして、これは本当に伝説の「壺の碑」なのだろうか?

坂上田村麻呂が創祀した千曳神社

1つのカギを握るのは、東北町に古くから鎮座する千曳神社だろう。なぜならこの神社、大同2年(807)に坂上田村麻呂が創祀したものとされ、社の周辺には田村麻呂が遺した石碑が埋められていると代々伝えられているからだ。

今から10年ほど前には、創建1200年祭を催した伝統あるこの神社。古くから「壺の碑」伝説を求めて多くの歌人が訪れ、江戸時代には幕府巡見使の参拝所としても活用された。

また、明治天皇の時代には、東北巡幸(明治9年)を前に宮内庁から「壺の碑」を捜索するよう指令がくだり、神社の付近を徹底的に掘り返した記録もある。しかし、それらしい石碑は発見されなかったという。

aomori_20200307_02.jpg
ところが歴史を紐解いてみると、実は田村麻呂は現在の岩手県までしか北上した記録がない。そのため、田村麻呂が創建したという千曳神社の由緒を疑問視する声があるのも事実だ。

一方で、田村麻呂の後を継いで征夷大将軍になった文室綿麻呂は、この地に到達した明確な記録があるから、もしかすると千曳神社は、文室綿麻呂が田村麻呂の遺志を継いで創建したものなのかもしれない。

だとすれば、近隣から出土した「日本中央の碑」の信憑性はいっそう増すことになるが――。

aomori_20200307_03.jpg

「壺の碑」の正体候補のひとつ、宮城県の多賀城碑

実は、「壺の碑」候補は、日本中央の碑だけではない。宮城県にかつて存在した多賀城の敷地内に据えられていたという奈良時代の石碑もまた、長らく「壺の碑」として議論されてきた。東北町で日本中央の碑が出土するまでは、こちらが本命だったと言っていいだろう。

通称「多賀城碑」と呼ばれるこの石碑は、江戸時代初期に発見されたもので、高さ約1.8メートルの花崗砂岩製。表面には多賀城の創建(724年)と改修(762年)を伝える、140字ほどの文字が刻まれている。

青森県と異なり、この地には田村麻呂が到達した記録があるため、すぐにこれが「壺の碑」ではないかと話題になった。かの松尾芭蕉もわざわざこの石碑を見にやって来たというから、当時の注目の高さが窺える。

aomori_20200307_04.jpg▲多賀城碑の「壺の碑」 画像素材:PIXTA

ただし、この多賀城碑には「日本中央」の文字は見当たらない。何より、多賀城の創建についてわざわざ田村麻呂が記したというのもなんだか不自然で、「壺の碑」の正体としては腑に落ちない。

現在、地元で作られたパンフレットをチェックしてみると、「『つぼのいしぶみ』とも呼ばれる石碑」と、ややトーンダウンしている印象。青森で新たな有力候補が見つかったことが影響しているのかもしれない。

周辺の地名が示す思わせぶりな痕跡

となるとやはり、青森県の日本中央の碑こそが、伝説の「壺の碑」なのだろうか。さらなる証拠を求めて、これが発見された東北町周辺の地名に注目してみたところ、面白い符合が見つかった。

この一帯の地名である上北郡に、近隣の十和田市と三沢市を含めたエリアを「上十三地方」と称するが、これがかつて都母村(つもむら)と呼ばれていた事実が判明したのだ。つまり、「つぼのいしぶみ」とは、もともとは「都母の碑」を指していたと考えるのは早計だろうか。

さらに言えば、日本中央の碑が発見されたのは、「千曳集落」と「石文集落」の中間あたりに位置する湿地帯だ。もしも、田村麻呂が遺した碑=石文が地名の由来であるなら、「都母の石文」の完成である。

今のところ、すべては推論に過ぎない。しかしこの先、「壺の碑」の伝説を裏付けるような、新たな発見があるかもしれない。ひとまずその日を心待ちにしつつ、伝説をめぐる想像を楽しむことにしよう。

PICK UP