ニッポンに行きたくてたまらない外国人を世界で大捜索! ニッポン愛がスゴすぎる外国人をご招待する「世界!ニッポン行きたい人応援団」(月曜夜8時)。毎回ニッポンを愛する外国人たちの熱い想いを紹介し、感動を巻き起こしています。
今回は、アメリカ人2名の初来日の様子をお届けします。
絶品鯛そうめんを堪能! 超極細のそうめん作りも体験
紹介するのは、アメリカに住む「そうめん」を愛するミランダさん。
暑い夏、食欲が落ちてもツルッと食べられる「そうめん」。約1200年の歴史を持つニッポン最古の麺で、鎌倉時代に麺を細く長く伸ばす技法が取り入れられ、現在のそうめんの形が確立されたといいます。さらに、細い麺が天の川や機織りの糸に通ずることなどから、「七夕に食べると病気にならない」といわれ、夏に食べる風習が。
元々宮廷料理だったそうめんが庶民に広まったのは、江戸時代中頃。当時は、長さが2メートル近くもあったそう。近年では、他の炭水化物に比べて消化が良く、素早くエネルギー源を補給できることが立証され、スポーツ選手の食事にも取り入れられています。
うどんやひやむぎも原料は同じ小麦粉ですが、違いは麺の太さ。農林水産省の規格により、0.1ミリ単位で分類されており、そうめんは1.3ミリ未満。中でも一流の職人が手で延ばしたものは、太さが0.3ミリ以下のものも。細ければ細いほど舌触りと喉越しが良く、高級品に。
ニッポンにはまだ一度も行ったことがないというミランダさんですが、そうめん愛は日増しに強くなり、自ら作るように。パスタを乾燥させる道具で麺を延ばしていますが、どうしてもうどんのようになってしまいます。
「私にできる麺はこれが精一杯です。どうすればあんなに細い麺が生まれるのか…ニッポンでどうしても勉強したいんです」。
そんなミランダさんを、ニッポンにご招待! 約7年前、念願の初来日を果たしました。
まずは「揖保乃糸」発祥の地・兵庫県へ。室町時代から揖保川流域で作られ、日本一の生産量を誇る揖保乃糸。実は、1つの会社が作っているのではなく「兵庫県手延素麺協同組合」に加盟する約400軒の製麺所が作っています。ミランダさんは兵庫県で、「家島の鯛そうめんを食べたい」と話していました。
姫路市の沖、瀬戸内海に浮かぶ家島諸島は、大小44の島からなる漁師町。天然真鯛の漁獲量が兵庫県内トップクラスの家島で、鯛漁師の中村利公さんに漁を見せていただきます。
中村さんが行っているのは「鯛網」という伝統的な定置網漁。約200メートルの網の中に、天然の真鯛を追い込んでいきます。4〜6月は産卵で外洋から家島近海に戻ってくるため、この時期は1日200匹の鯛が獲れるそう。獲れたてを船上で刺身にしていただき「美味し〜い」と感動!
そしていよいよ、念願の鯛そうめんをいただくことに。作ってくださるのは、中村さんの親戚で「料理旅館おかべ」を営む岡部賀胤さんです。
使うのは、揖保乃糸の「ひね」。揖保乃糸は毎年10月から翌年4月に製造され、その年に出荷される「新」に対し、専用倉庫で1年熟成させたものを「ひね」と呼びます。岡部さんによると、出来立てはあまりコシが出ないそう。寝かせて梅雨を迎えると、小麦粉に含まれる酵素が働き、コシがより強くなるのです。
お次は鯛を調理。身が締まった2キロほどの若い鯛を、酒と水と醤油だけで炊きます。鯛はイノシン酸やグルタミン酸が豊富なため、ダシいらず。鯛の旨味がたっぷり入った煮汁をそうめんになじませ、波間を泳ぐように盛り付ければ完成です。
家島名物の鯛そうめんは230年以上の歴史があり、おめでたい席の締めとして欠かせない料理。ミランダさんは「煮汁を吸ったそうめんが、たまらなく美味しいです」と絶賛し、あまりの美味しさにおかわりも。
あれから7年。鯛漁師の中村さんは、去年お孫さんが漁師になり、3世代で元気に海へ。岡部さんはお祝いごとに、今も鯛そうめんを作り続けています。
続いて向かったのは、熊本県南関町。この地で作られる「南関そうめん」は、手打ち、手延べ、天日干しと、100%手仕事だけで作られています。約300年の歴史を持ち、徳川将軍家や明治天皇にも献上された逸品です。
南関そうめんのような細いそうめんを食べるのが夢だというミランダさん。熱意を伝えたところ、江戸時代から約250年続く老舗「雪の糸素麺 猿渡製麺所」の皆さんが、受け入れてくださいました。こちらは、九代目で職人歴60年の井形朝香さんと、弟子の金坂俊祐さんで切り盛りしています。
早速、屋号にもなっている雪の糸素麺を見せていただきます。その太さは約0.2ミリと、針に通せる細さ。ミランダさんは「手仕事でここまで細くなるなんて信じられません!」とびっくり。
南関そうめんは1本1本手作業でこねるため、コシが抜群。茹でて2日経っても、ほとんど延びないそう。その細さゆえ、わずか30秒で茹で上がります。
憧れの南関そうめんをいただき、「細いのにものすごいコシです」とミランダさん。早速、伝統の製法を学ばせていただくことに。
原料は塩と水、小麦粉。塩には吸水性があり、麺のひび割れを防ぐ役割が。生地を1時間ほどしっかりこね、極限まで粘りを与えてから2時間寝かせます。
固くならないうちに、厚みを揃えながら直径1メートルほどに延ばしたら、小刀で渦巻き状に5センチ幅の切れ込みを入れます。こうして1本になった生地を、太さ0.2ミリまで延ばしていきます。右手で「より」をかけながら左手で引き延ばしていく様子に、「すごい技術です」と驚くミランダさん。これこそ、抜群のコシを生む職人技なのです。
そもそも「コシ」とは、小麦粉の成分に含まれる、粘りと弾力を持つグルテンによるもの。絶え間なく手でこねながら延ばしていくことで、麺を鍛え、グルテンの形成を育みます。
ミランダさんも挑戦しますが、麺の太さにバラつきが。朝香さんのような手つきになるには、最低でも1年はかかるとか。小指ほどの太さになったら一晩寝かし、さらにグルテンの形成を促します。その間に、そうめんつゆの作り方も教えていただきました。
翌日は、一晩寝かせた生地を極細の麺へと仕上げていきます。専用の台に、8の字を描くように麺をかけ、よりをかけながら細く長く延ばします。手の感覚だけを頼りに、細い所は弱く、太い所は強くこね、麺の太さを均等に。
ミランダさんが麺を延ばすと切れてしまいましたが、「失敗するのは当たり前」と朝香さん。この動きの習得に、3年はかかるそう。それでもミランダさんの動きを見て、「そうめん作りの素質がある」と嬉しい言葉も。
この後は2時間ほど寝かせ、さらに麺を引いては2時間寝かす作業を2度繰り返せば、麺のコシは最高の状態に。そして、太さが1センチほどになったところで、いよいよ0.2ミリの極細にする作業へ。
外の作業場で麺をかけ、2本の竹の棒で、まずは麺を縦方向に延ばしていきます。続いて、上から撫でるように横方向へ。コシを極限まで高めているので切れることはありませんが、乾くと麺が固くなるため「1秒でも早く延ばさないとダメ」と朝香さん。
1分以内で、1.5メートルから4メートルに。延ばせば延ばすほど、細くなっていきます。限られた時間で0.2ミリまで細く引き延ばせるのは、朝香さんだけだそう。憧れていた、延ばしの作業を目の当たりにしたミランダさんは「夢が叶いました!」と大感激。
30分ほど天日に当てて乾かしたら、麺のカットから最後の包装まで、徹底した手作業で行います。こうして最高のコシを持つ、超極細の雪の糸素麺が完成!
朝香さんが「慣れないのに、一生懸命覚えようという気持ちが本当に嬉しかった」と伝えると、「そうめん作りの大変さを肌で感じることができました」とミランダさん。朝香さんは、「本当、孫みたいだ」と笑顔に。
ここで朝香さんが、10年以上寝かせた南関そうめんを茹でてくださることに。寝かせれば寝かせるほど、コシの元であるグルテンが形成されて美味しくなりますが、10年以上寝かせたものは貴重品! しかも、残っているのはわずか15把。ミランダさんに食べてほしい…そんな思いを込めた、朝香さんからのサプライズです。
ミランダさんは「美味しい! 信じられない食感で、そうめんじゃないみたいです」と感動! 10年で熟成が進み、余計な油や水分が抜けて究極の食感に。貴重なそうめんをしっかりと味わい、「人生で最高のそうめんでした」と伝えました。
別れの時。実はミランダさん、最初は受け入れていただけるか不安だったそうですが「皆さんが優しくしてくれて、自分の家にいるみたいに安心できました。朝香さんが祖母と重なって、別れるのがすごくつらいです」と話します。
最後にお世話になった皆さんへ、「おもてなしに感動しました。南関町は私の故郷です。またいつか来ますね」と感謝の手紙を日本語で読み上げ、朝香さんとハグを交わしました。
あれから7年。猿渡製麺所は、朝香さんの孫の師富慶太朗さんが十代目として継いでいました。放送直後、全国から注文が殺到したことで「祖母のそうめんの味を絶やしてはいけない」と継ぐことを決めたそう。
弟子の金坂さんは既に独立し、製麺所を開店。慶太朗さんは勤めていた会社を辞め、6年前に弟子入りしました。しかし、修業を始めて2年で、朝香さんが胃がんに。入院後は食が細い状態でしたが、慶太朗さんのそうめんを食べて「美味しい」と言ってくれたことも。こうして孫の成長を見届け、朝香さんは天国へと旅立ったのです。
名人と謳われた祖母から受け継いだ味を守るため、日々ひたむきにそうめんを作り続ける慶太朗さん。生産が追いつかず、注文から1年待ちの状態だとか。
生地作りから手延べまで1人で行っているため、作るには限界が。さらに、手延べの技はかなり上達したものの、麺の太さにはまだバラつきがあり、厳しい選別をクリアできるのは1日5箱が精一杯。それでも楽しみに待ってくれている人のため、お店を継いで以来、ほぼ休みなく作り続けています。
お店を継いで4年。今も祖母、朝香さんの背中を追い続ける慶太朗さん。技術もさることながら、「人から好かれ、遠くからもファンが来てくれたりする、おばあちゃんみたいな人でありたい」と語ってくださいました。
地元の方々に支えられながら、一歩一歩、職人の道を歩み続ける慶太朗さんは、朝香さんの想いと味を守り抜く決意に満ちていました!
足袋を愛するアメリカ人にニッポンの職人が驚きの報告
紹介するのは、アメリカに住む「足袋」を愛するアマンダさん。
平安時代の武家が履いた皮の履き物「単皮(たんび)」が発祥といわれる「足袋」。江戸時代に、今も多く履かれている木綿の足袋が誕生し、庶民にも普及。着物に合わせる白足袋の他、屋外で履ける地下足袋や、和服姿を美しく見せるヒール足袋まで、さまざまな足袋があります。
アマンダさんは、高校生の時、先生に借りた着物に一目惚れ。足袋にも魅了され、自作するまでに。しかし、まだニッポンには一度も行ったことがありません。
独学で足袋を作り始めて9年になりますが、つま先の作り方が難しいのが悩み。履き口の金具「こはぜ」もアメリカでは手に入らず、代わりにボタンを使っています。
そんなアマンダさんを、ニッポンにご招待! 6年前に初来日しました。
向かったのは、東京・四谷の「むさしや」。足袋作り一筋60年、三代目の大橋信彦さんにお世話になります。かつて東京には800軒の足袋店があったそうですが、今はわずか5軒ほど。「むさしや」はオーダーメイドにこだわり、予約は3カ月待ちとのこと。
アマンダさんが作った足袋を見ていただくと、「すごい、よく作りました」とお褒めの言葉が。「でも、つま先の部分が上手に縫えなくて……」とアマンダさん。ハリと立体感がなく、履きにくいようにも見えます。
実は、このつま先の縫い方が、足袋作りにおける最大の難関。10年以上の修業を積み、初めて任される工程なのです。そこで、アマンダさんに合う足袋を作りながら、足袋作りを教えていただくことに。
そこへ、お客さんが来店しました。足を採寸し、既にできている足袋の中から選んで履いてもらうと、お客さんはびっくり! 普段履いているものよりサイズが小さいのに、足が入ったそう。足袋のサイズは、履いている靴に対してマイナス1センチ程度。小さなものを選ぶと、足を美しく見せることができるのです。
そんなオーダーメイドの足袋には、大橋さんの細やかな心配りがありました。早速、アマンダさんも採寸していただきます。
江戸時代に足のサイズを測る際、一文銭を使ったことから、現在でも足袋のサイズは「文(もん)」。1文は2.4センチにあたります。採寸するのは指周りと甲の周り、親指の高さなど、合計13カ所。「これだけ緻密に計るから、立体的な足袋が出来上がるんですね」とアマンダさん。全ては「履きやすさ」と「美しさ」のためなのです。
足袋は、足底と左右、3つのパーツを組み合わせて作られ、ベースとなるのが足底。型紙にアマンダさんの足を乗せ、型を取ります。
すると大橋さんが、斜めの線を。実はこれ、人差し指の内側の角度を示す線。アマンダさんの場合は足の内側に向かっていますが、人によって角度はさまざま。この角度に合わせてつま先を縫いあげると、抜群のフィット感が生まれます。
ここから、足の形に切り出していきます。大橋さんが使うのは、丸包丁。ハサミがまだ一般的ではなかった江戸時代、布や紙を切る時に使われていた万能包丁です。抜群の切れ味で、重なった生地も滑らかに切ることが可能だそう。
履きやすい足袋の要となる、つま先の角度も0.1ミリ単位で調整。「そんなに細かく切っているから指先が美しくなるんですね」というアマンダさんの言葉に、大橋さんは「そうそうそう!」と笑顔があふれます。
続いて甲の部分。こちらも立体をイメージして型紙を作っていきます。底のカーブは、土踏まずの形に合わせたくぼみで、ぴったりとフィットさせるための工夫です。
こうしてアマンダさんの足の型紙が出来上がり。片足分を作るのに、4時間要しました。「すごく時間がかかっているんですね。ニッポンに伝わる伝統の技は想像以上です」とアマンダさん。
型紙に合わせて生地を切り出したところで、こはぜを掛ける「かけ糸」を作る工程へ。一般的なかけ糸は直線ですが、大橋さんのものはカーブしています。これは、正座をした時に足が窮屈にならないための配慮。履く人のことを考えた心遣いです。
かけ糸を作るには、細い糸を3本撚り合わせて1本の糸を作る「撚糸」という作業を行います。糸を撚ることで強度が増し、こはぜをしっかり支える太い糸が完成しました。
この日の工程は、8時間ほどかけて終了。そして翌日、いよいよアマンダさんが一番知りたかった、つま先の縫製へ。つま先を縫うためのミシンは、1800年代後半に作られたもの。靴用に作られた外国製のミシンを、足袋や靴下の老舗メーカー「福助」が足袋用に改良したものだそう。
つま先の縫製は、指が入るように高さを出す工夫が。裏返してみると、生地を寄せて立体的に縫われていることが分かりますが、この時に生まれるひだこそが、立体的なつま先を作る秘密。
さらによく見ると、採寸した親指の高さに合わせて、ひだの高さに違いがあるのが分かります。ひだの幅を1つずつミリ単位で調整することで、足にフィットするつま先に。習得に10年はかかる、足袋を作る行程で最も難しい作業です。
そして仕上げ。木型を足袋の中に入れ、縫い目を叩くことで滑らかになり、履き心地も抜群に。木型は初代から受け継がれてきた、足袋職人の命です。
最後に、木槌で全体をならして完成。足袋を履いたアマンダさんは、「こんな感覚は初めてです」と、履き心地に感動!
「こういうのは思いをこめるんです。思いとは、愛なんです」と大橋さん。アマンダさんは「大橋さんの思いに涙が出てきそうです。これが職人さんの物づくりなんですね」と伝えました。
別れの時。「大橋さんに教わった足袋への情熱は、決して忘れません」とアマンダさん。すると大橋さんから、職人にとって門外不出の足型のプレゼントが。「足袋を作り続けてほしい」という思いを込めた贈り物です。
「言葉が出てきません。教えてもらった事は全てが私の財産です」と大感激のアマンダさん。大橋さんから「頑張ってください」と激励の言葉をいただきました。
あれから6年。アマンダさんは、大橋さんに教わった手順で、今も足袋を作っています。一番大切なつま先も、大橋さんの足袋に近づけようと、市販のミシンの針で一つ一つ山を作り、押さえながら縫うことで、以前よりも膨らみができるように。
今から2年半前、大橋さんに足袋を送って見ていただくと、「大変素晴らしいです」と褒めてくださいました。
現在アマンダさんは、作った足袋をネットで販売するため、準備を進めているそうです。
そんなアマンダさんに、大橋さんから伝えたいことがあるそうで、ここで、アメリカと中継を結ぶことに!
実は大橋さん、足袋作りを辞めることになったのです。78歳という年齢から、体を配慮して廃業を決意。さらに昨年9月、区からお店の建物が耐震基準を満たしていないと指摘があり、1年以内に退去することに。
アマンダさんは、お店のホームページで廃業することを知っていましたが、なんと声をかけていいかわからなかったそう。「大橋さんのような足袋職人が辞めてしまうことは、とても残念です」と話します。
大橋さんは、最後に足袋作りを教えたアマンダさんに伝えたいことがありました。「アマンダさんを、とても大事な弟子のように思っているんです。むさしやの伝統の技を引き継いで、足袋作りを続けてくれたら嬉しく思います」。
足袋職人にとって仕上げの作業に欠かせない、木型も送ってくださるとのこと。30年ほど前から職人が不在で、もう手に入らないといいます。
「この木型を、私の奥義の形として送ります」と大橋さん。アマンダさんは感謝を伝え、「弟子として、むさしやの名に恥じない足袋を作れるように頑張ります」と力を込めました。
大橋さんは6月いっぱいで足袋作りは辞めましたが、9月まで在庫の購入やオーダーした足袋の受け取りは可能とのこと。取材中もお客さんが訪れ、番組レギュラーの眞鍋かをりさんも、収録後にお店を訪問して購入していました。
そしてアマンダさんの元には、大橋さんから木型が無事に到着。「この木型を受け継いで、大橋さんの足袋への情熱は必ず私が伝えていきます。60年間の足袋人生、お疲れ様でした。本当にありがとうございました!」と大橋さんにメッセージを送りました。
大橋さん、60年間本当にお疲れ様でした!
月曜夜8時からは、月曜プレミア8「世界!ニッポン行きたい人応援団」を放送!
▼ニッポンの“かき氷”が大好き!
フランスでカフェを営むトランさん。お店の人気メニューは日本製の機械で削り自家製シロップをかけた“かき氷”!そんなトランさんをご招待!かき氷の聖地といわれる奈良県で人気No.1を誇る「ほうせき箱」でふわふわ♪で食べ進めると味や食感が変わる秘伝の作り方を教わることに!さらに、「ほうせき箱」が出店するイベントで、トランさんのオリジナルかき氷を出すことに…!?
▼かき氷機&天然氷を知りたい!
フランスで日本製のかき氷機を使うトランさんは大阪へ。「池永鉄工」でニッポンの技術を目の当たりに!さらに、栃木県・日光で“天然氷”を作る蔵元「松月氷室」で冬の1カ月だけが勝負!という天然氷の夏場の作業をお手伝い!そしていよいよ「ほうせき箱」が出店するイベントへ。すると“意外な人物”がお手伝いに参加!そして、トランさんが考案したオリジナルかき氷の評価は…?