「じっくり聞いタロウ~スター近況㊙報告〜」(毎週木曜深夜0時)。8月22日(木)の放送では、「実家が貧乏芸能人SP」をお届け!
【動画】TVer:施設などを転々として育った“JJモデル”&ネズミと生活?実家が貧乏な“Fカップグラドル”
Fカップグラドル琴井ありさの壮絶な学校生活
Fカップグラドルの琴井ありさは、東京・練馬区出身。築70年の実家はボロボロで、畳を踏むと、へこんでパコパコと音がし、今にも抜けてしまいそうだ。琴井は「ここに入ったら家が崩れるから、踏むなと言われた」と話す。
中学1年生の時の運動会では、冷凍庫から出した食パンを袋ごと持っていったそうだが、すでに賞味期限が切れており、“濡れ腐ったパン”になっていたそう。周りには貧乏なことがバレていたため、ご飯やお菓子を分けてもらっていたという。
琴井は、小学校から高校までの12年間、バスケットボール部に所属。小学生の時は体育館履きでプレイしており、中学から高校3年生までは特大セールで買った激安のバスケシューズを履き続け、買い換えることもできなかったそう。
白い靴下を履いてシューズの穴をごまかし、1度赤い靴下を履いてしまった時は、友達から「血が出てるよ!」と言われたという。学生カバンも、500円で購入したものをずっと使い続けていた。
琴井が2歳の時、母親が家を出て行ってしまい、祖母と病気になった父親と3人で生活。祖母の年金で生活費と医療費を賄っていたため、貧乏になってしまったという。
家にはネズミがいたため、食材を箱に入れて寝ていたが、ある日、ネズミに指をかじられたことも。
「病院に行くのは贅沢」という“貧乏あるある”の理論から、膝の痛みを2年間も放置してしまったところ、半月板を損傷。現在もリハビリを続けているという。
JJモデル・ギャビーの半生
アメリカ生まれのJJモデル・ギャビーの祖父は、福岡県の大型うどんチェーン店「ウエスト」で働いており、日本食を海外に広めようとアメリカで新事業を開始。ギャビーの家族もアメリカで一緒に暮らしていたため、その頃は裕福だったという。
4歳の時に両親と日本に来たが、アメリカ人の母親は、日本の生活が合わずに離婚。英語しか話せない日本人の父親と暮らしていたが、父親はしばしば旅に出て家を空けていたため、彼女は施設などを転々として育ったという。
自身も日本語ができなかったため、学校では友達ができず、家にはほとんど父親がいない状態。一時期グレてしまったこともあり、地元では「金髪ハリケーン」と呼ばれていたそう。
食事は、隣近所に「私のご飯ありますか?」と突撃し、食べさせてもらっていたというギャビー。家に帰らず、友達の家を転々としていたこともあり、気づいた時には家が売却されてなくなっていたという。
そんな中、ギャビーはアルバイトでお金を貯めて16歳で上京。渋谷「109」の前でスカウトされ、雑誌「JJ」の専属モデルになった。