TX「じっくり聞いタロウ」、NTV「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」など、多くの長寿番組を担当。「ハイエナ時代を経て今がある」:放送作家・西田哲也物語#1

公開: 更新: テレ東プラス

去年末、「じっくり聞いタロウ〜スター近況㊙報告〜」(毎週木曜深夜0時)のエンディングテーマとして、「花電車」という楽曲が流れていたのをご存じだろうか。テクノバージョンのMVには熊田曜子がストリッパー役で登場! フェロモン全開で見事なポールダンスを披露し、なまめかしい肉体美を見せつけ、話題に。
この楽曲を作り、シンガーソングライターとしての顔を持ち合わせるのが、放送作家の西田哲也だ。

 
大阪で放送作家としてデビューし、記念すべき30周年を迎えた西田。現在も「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」「ナゼそこ?」「じっくり聞いタロウ」を筆頭に、6番組を担当している売れっ子だ。

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今回の「テレ東プラス人生劇場」は、そんな西田に、放送作家に至るまでの道のりや、関西ローカル時代、上京物語、知られざる音楽活動をインタビュー! 全4回にわたってお届けする。

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上京前の僕には、2人のライバルがいました


――ここ数カ月、西田さんの楽曲「花電車」のフレーズが、なぜかトイレに入る度に頭の中でリピートしています(笑)。気になる音楽活動については#4で伺いますが、まずは西田さんご自身について聞かせてください。
大阪の大学を卒業後、22歳で放送作家の卵として制作会社に入社されたそうですが、最初から作家志望だったのでしょうか。

「実は最初から目指していたわけではなく、大学時代は、ミュージシャンか小説家、映画監督か芸人、そのどれかになりたいと思っていたんですよ。モラトリアム期間に芸術に憧れてたというか…あれ? ちょっと、なんで笑ってるんですか!(笑)」

――すみません…西田さんの軽快な話ぶりがちょっとツボに入りました。

「真面目に話してるんやけど、おかしいなぁ(笑)。例えば、映画やったら『ぴあフィルムフェスティバル』、小説やったら『すばる文学賞』、音楽なら『SonyMusicSD Audition』など、登竜門的なところに作品を送りましたが、どれも全部引っかからず…。大学時代も、コンビを組んで大阪らしいコントや漫才をしてみたんですけど、全部あかんかった。今思い返すとちょっと恥ずかしい…心のひだに触れるというか(笑)。おそらくネタも、そんなに面白くなかったんでしょうね」

――なるほど。出役に憧れていたんですね。

「まぁそうなんでしょうね。大学時代、高校からの相方と呼べる同級生と、僕の実家で漫才やコントのネタ合わせしていた時期があったんですよ。大学4年の時、彼がトイレに行った時に、トートバッグの上がちょっと開いててカバーの付いた本があったから、“最近こいつ、何を読んでるんやろ…”と思ってパッと見たら、それがマスコミに就職するための本で…。それを見た時、“あ、こいつ、本気じゃないんや。お前が本気じゃないんやったら、俺も芸人はないわ”と。そんな中、大阪のテレビ番組の制作会社の求人が大学に貼られていたので、すかさず応募したんです。放送作家としてのスタートは、そこからになります」
――制作会社=ADの募集というイメージですが、放送作家の枠があった?

「当時は、“制作会社も放送作家を育てなければ!”みたいな風潮があったんですよね。高田文夫さんや鈴木おさむさん…僕の中では、放送作家って表方に近い裏方みたいなイメージがあったので、出役になれないのであれば、作家を目指そうと。面接で合格をいただきまして、20数人の応募の中から2人だけ選ばれたと聞きました。
最初の2年間は制作会社の契約放送作家として働いたんですけど、恵まれていたのは、当時その制作会社がとにかく勢いがあった。最初から、その制作会社がやっている4本の番組につくことができたんですよ。見習いなんですけど、2年間は学びながらお金ももらえた。固定給で15万円、さらに一番組ごとに1カ月2万円もらえたので、月給は23万円。恵まれた環境でした」

――最初に作家としてついた番組は何だったんですか?

「『なにわ友あれ赤井英和』でした。ネタ出ししても、全く相手にされなかったことを覚えてますけどね(笑)」

――西田さんがお仕事を始めた頃は、放送作家の勢いがすごかったんじゃないですか?
鈴木おさむさんも同世代ですし、上や下には有名な作家さんがいっぱいいらっしゃる。

「鈴木おさむさんは年齢1つ下やと思うんですけど、先輩なんですよね。たしかに皆さん勢いがありましたが、当時の僕は、その大阪の制作会社にまったくハマらなくて…。悶々とする中、ひたすら与えられた番組をやっていたら、元B&Bで、作家として『オレたちひょうきん族』に参加していた萩原芳樹さんと、特番でご一緒させていただく機会に恵まれたんです。“こんな面白い人が世の中にいるんだ”と衝撃を受けました。萩原さんと出会ったことで、“よっしゃ、俺もフリーになったろう!”と思えた。あわよくば、“萩原さんの番組に呼んでくれるかもしれん”とか思ったのかな?(笑) そこで制作会社を辞めました」

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――フリーになってからは順調だったんですか?

「それがもう、順風満帆(笑)。その時は、リサーチャーとしてものすごく優れていたんだと思います。例えば、高校生の特番で“スタジオに150人観覧を呼ぶんだけど…”とスタッフに言われたら、“僕に呼ばせてください!”と、もうハイエナですよ(笑)。当時の大阪には、東京のように観覧客のキャスティング会社がなかったか、それを使う予算がもったいないか…そんな世界でしたから。
“雑誌の文通コーナーを特集したい”と言われれば、雑誌を50冊買って傾向をまとめ、雑誌毎に要約した付箋を貼り、“これを読めば分かる”というところまで準備しました。年配の方の1000人アンケートが必要となれば、老人ホームやコミュニティセンターを車で回ってお願いし、それをまた回収する。そんな努力が実を結び、“西田って根性あるよね”と褒められるようになり、『クイズ!紳助くん』に呼ばれるようになったのかなと思います。
フリーになったことで、“ここで一生懸命やってあかんかったら、俺、無職になるわ”という不安もあったから、もうがむしゃらでしたよね」

――そんなハイエナ時代を経て、24~25歳の時にはレギュラー番組が8本。

「『ウラネタ芸能ワイド 週刊えみぃSHOW』や『紳助の人間マンダラ』、『たかじんONEMAN』に入れていただきました」

――うわっ、すごい…関西のビッグネームばかりですね! 大阪でそれだけ成功していたにも関わらず、27歳の頃に東京へ進出します。きっかけはあったのでしょうか。

「当時、僕の中には2人のライバルがいたんですよ。勝手に自分の中で思ってただけなんで、向こうはわからんけど(笑)。『吉本超合金』を一緒にやっていた松本真一と、もう1人、今は作家を辞めてしまったライバルがいました。2人が東京に行くことになったと聞いて、当時の僕は、“えーと、東京…?”。考えたこともなかったんですよ。正直その時は“このままいけば40歳までは安泰だな”と思ってたので、“なんで行くの?”と聞いたら、すでに東京で作家として入る番組が用意されているから行くと。”なに? このかっこいい感じ? 圧倒的勝ち組やん!“と(笑)。その時なぜか、”負けた…。よっしゃ俺も行ったろ!“と思ったんですよね。2人と違って、何のつてもないのに…」

――大阪のレギュラー番組を全部辞めてということですか? ダイアンさんみたいに(笑)。

「そう! 彼らと同じ思いですよ。“すいません! 僕は3カ月後に東京に行きます。今までありがとうございました”と。でもね、そこで僕は今一歩踏み切れませんでした。当時、吉本興業の懇意にしていただいてる方に、“大阪までの交通費を出すから、新番組を1本やってくれへんか”と声をかけていただいたんです。やっぱりそこがね、フリーの哀しい性とでも言いましょうか、“必要とされたらやります。他は辞めますが、やります”(笑)。ただ、この僕の優柔不断な決断が、やがて大問題と発展していくわけなんです……」

――果たしてどんな大問題へと発展するのか! 「放送作家・西田哲也物語」#2は、2月公開予定。西田さんの上京物語をお届けする。

【西田哲也 プロフィール】
72年生まれ。漫才コンビ・錦鯉のように老若男女に愛される歌手を目指す50代の新人アーティスト。
また別の顔は、キャリア30年の現役放送作家。ミュージシャンとして第二の人生を踏み出そうと50歳で音楽配信デビューした。「花電車」ほか「ブルジョワ電車」「夜の散歩」など、心に沁みる、頭から離れない楽曲を、次々と生み出している。
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(撮影・取材・文/編集部 撮影協力/BAR deuce)