ニッポンに行きたくてたまらない外国人を世界で大捜索! ニッポン愛がスゴすぎる外国人をご招待する「世界!ニッポン行きたい人応援団」(月曜夜8時)。毎回ニッポンを愛する外国人たちの熱い想いを紹介し、感動を巻き起こしています。
今回は、フランスのカップルがニッポンを訪れた際の様子をお届けします。
【動画】「ニッポンに行きたくて行きたくてたまらない」と願う外国人に密着!そこにはたくさんの感動が!
徳川家ゆかりの床の間や、銘木「北山杉」の床柱に感動
紹介するのは、フランスに住む、「床の間」を愛するステファニーさんとヴァンサンさん。
ニッポンの住宅の象徴、床の間。その発祥は室町時代まで遡ります。
武家が来客をもてなす部屋「書院」に、掛け軸や置物を飾る「床(とこ)」が作られ始め、床のある部屋を「床の間」と呼ぶように。現存する最古の床の間は、千利休により1582年に建築された国宝「待庵」。無駄なものを削ぎ落とした、質素なしつらえとなっています。
その後、城の御殿などではもてなしの用途以外に、豪華な床を背にすることで主人の威厳を示す役割も。やがて庶民の家の客間にも床を作るのが一般的となり、床のあるスペースを「床の間」と呼ぶようになりました。
家の中で最も格が高い部屋に作られ、その家の顔ともいえるのが床の間。ニッポンの四季を描いた掛け軸や季節の花を折々に合わせて飾り変えることで、来客にも四季の移ろいを感じてもらいたいというニッポンの心が表れた空間です。
ヴァンサンさんは子どもの頃、フランスで放送されていたニッポンのアニメに夢中になり、ニッポンが大好きに。そんなヴァンサンさんの影響でステファニーさんもニッポンの虜になり、独学で日本語を学んでいます。いつしか和室で暮らすことが2人の夢になったそう。
そこでインターネットで研究し、築93年の自宅にある2つの部屋を和室にリフォーム。
ニッポンの宮大工の技術だけで作られており、設計はヴァンサンさん、大工仕事はステファニーさん主導で作り上げたとか。そんな2人が最もこだわったのが、ニッポンの和室に欠かせない床の間です。
しかし、手作りの床の間には悩みが。独学では限界があり、床柱なしで床の間を作ってしまったのです。しかもフランスには、床柱に使える美しい柱がないそう。
床の間に欠かせないパーツは大きく4つ。上の小さな壁についている「落とし掛け」、一番下の「床板」、床板の前についている「床框(とこがまち)」、そして、一際目立つ存在が、床の間の顔といわれる「床柱」です。威厳を示す書院造りでは角材が、客間などもてなしの空間では丸太や自然な形を生かしたものが好まれ、木の種類や形状にも個性が。
「インターネットや本で調べますが、床の間だけを扱った資料が少なすぎて」とステファニーさん。ニッポンでさまざまな床の間を実際に見て学び、床柱がある正式な床の間を作りたいと願っています。
そんなステファニーさんとヴァンサンさんを、ニッポンにご招待!
真っ先に向かったのは、愛知県名古屋市。名古屋城本丸御殿に、日本一豪華な床の間があるというのです。今回は特別に、名古屋城学芸員の原史彦さんに案内していただきます。
本丸御殿は殿様の住居であり、政治を執り行う場所。1945年の空襲で焼失したものの、5年前、江戸時代の図面や記録をもとに忠実に復元されました。30以上の部屋があり、用途の異なる床の間がいくつも存在します。
まずは、黄金に輝く床の間。ステファニーさんは「うわぁ〜! すごいですね!」とびっくり! 狩野派の絵師による障壁画「竹林豹虎図」を、江戸時代と同じ塗料で忠実に再現しています。原さんによると、この部屋は玄関から入って最初の部屋。将軍に会いに来た大名に威圧感を与えるため、権力の象徴である虎が描かれたこの部屋に最初に通したという説も。
次は、将軍との正式な謁見のために使われた表書院の床の間。床柱をはじめ、使われているのは最高級の木曽檜。床の間の脇には、将軍を守るために家来が隠れていたとされる扉「帳台構え」も。今は飾り付けをしていませんが、本来は豪華な障壁画の上に、掛け軸を飾るそう。迎える相手の身分によって枚数を変えていたのだとか。
そして本丸御殿の一番奥にあるのが、最も格式が高い上洛殿。三代将軍家光が、名古屋で宿泊するためだけに増築されました。将軍が使う最高の部屋に、2人は大興奮!
将軍が座る「上段の間」は、手前の部屋よりも一段上がっています。床の間は「偉い人をもてなす部屋なんですよね」と原さん。その家の権威を示す場でもあると同時に、最高級にもてなしていることを示す場でもあるそう。ステファニーさんは「床の間という空間に込められた意味がすごいですね」と感動を伝えました。
学芸員の原さん、本当にありがとうございました!
続いて向かったのは、神奈川県箱根町。実はステファニーさん、「老舗旅館で実際に使われている床の間が見てみたいんです」と話していました。
そこで、現在では貴重となった伝統的な床の間を20以上も持つ、箱根・塔ノ沢の温泉旅館「福住楼」へ。創業は明治23年、建物全館が登録有形文化財に指定されており、島崎藤村や川端康成などの文豪に愛された宿です。早速4代目の澤村恭正さんに、床の間の数々を案内していただきます。
まずは、川端康成が執筆に勤しんだ和室。床柱に使われている桑の木は光沢があり、木目も美しく、硬くて耐久性があるそう。続いて見せていただいた客室には、畳2畳分もある広い床の間が。「すごく立派だよ!」と、桐の丸太を使った床柱に大興奮のヴァンサンさん。桐は湿気を通しにくいため、割れや狂いが少なく、古くから琴や箪笥などに使われています。
部屋ごとにさまざまな構造としつらえを持つ床の間。中でも2人が気になったのが、小さな床の間に使われた床柱。京都の北山地方だけで生産される北山杉で、表面が滑らかで光沢があり、まっすぐなのが特徴です。この部屋で、床の間をバックに記念写真を撮ってもらったステファニーさんは「この写真は私の宝物です」と感動。
「福住楼」の澤村さん、本当にありがとうございました!2人が一目惚れした、北山杉の磨き丸太を使った床柱。その発祥は室町時代。現在でも伝統的な製法で作られる貴重な柱は、1本で100万円の値段がつくものも。そんな北山杉の床柱がどのように作られるのか学ぶため、2人は京都へ。
京都市北区の、北山と呼ばれる地域に茂る北山杉。水が豊かで気温が低めのこの地域は、杉の木を育てるのに適していたことから、林業が盛んに行われるように。
安土桃山時代、千利休によって茶の湯文化が広まると、茶室の建築に北山杉が用いられて発展。特に、表面をツルツルに磨き上げた「磨き丸太」は、その美しさから家の顔となるような“見せる”部材として使われています。
今回は、北山杉の植林から柱作りまで一貫して行う「石川商店」にお世話になります。
「石川商店」は、家族で76年営み続ける銘木商。一家が手がける柱の美しさは、農林水産大臣からも表彰を受けるほど。早速、当主の石川裕也さんに、床柱に使われる北山杉を見せていただきます。
倉庫には、北山杉の美しい丸太がずらり。その数、床柱だけで1万本! 石川さんによると、苗を植林してから床柱になるまで、30~35年の年月がかかるそう。
石川さんが取り出したのは、手入れをされずに育った木。手をかけずに育った杉は、年輪1本1本の間隔が広くなっています。一方、同じ年数の杉でも石川さんが手入れをして育てたものは、年輪がギュッと詰まり、硬く強い木材に。
実は北山杉を名乗るには、厳しい条件が。直径は約10〜12センチ、真円に近い丸で、上と下の太さの差は極力少なめ。そして、表面に枝の跡がないこと。北山杉は丸太のまま見せる化粧柱に使うため、強度だけでなく、見た目にも細かな条件があります。
北山杉の床柱の美しさに感動したステファニーさんは「職人さんの愛がなければこんな風にできないと思います。北山杉は、この地域の宝のような存在ですね」と話します。
すると石川さんが、世界で唯一この地域だけに育ち、人々が大切に守り続けてきた貴重な杉を見せてくださることに。それは、台杉仕立と呼ばれる方法で育てたもの。土台となる株から何本もの幹が生え、伐採しても再び生えてくるため植林が不要。限られた土地で苗木の不足を解消するため、室町時代に考案された方法です。
屋根を支える垂木などに使われることが多いという台杉。見せてくださった杉は、なんと樹齢300年近く! 病気にかからないよう、管理する方がいるそう。
翌朝。北山杉を、美しく滑らかな光沢を持つ「磨き丸太」に仕上げる、職人技の数々を学ばせていただくことに。 石川商店の法被を着せていただき、北山杉が生い茂る山林へ。石川さんのいとこで枝打ち職人の堂下祐一さんに、「枝打ち」を教えていただきます。
枝打ちとは、北山杉の特徴である、極限までまっすぐ伸びる木に育てるのに欠かせない作業。「猿飛び」と呼ばれる足場を幹に引っ掛けて登り、木から木へと移動しながら、専用の鎌で枝を落とします。枝打ちの頻度は、植林して7年後あたりから4年に1度。すると、傷跡を覆うように年輪が重なり、節のないツルツルの木肌に。さらに幹が太くならず、上へ上へと伸びるため、身が締まった丸太材に育つそう。
ステファニーさんも、枝を落とす作業にチャレンジ。力が足りずに苦戦しましたが、なんとか落とすことができました。「腕や肩の力が必要で、体に負担のかかる大変なお仕事ですね」。堂下さんによると、女性の枝打ち職人はいないそう。
休憩を挟み、伐採作業。このあたり一帯の北山杉は、すべて堂下さんが丁寧に枝打ちしたもの。伐採する時に少しでも傷がつくと床柱として使えず、30年の苦労が台無しに。
まずは杉の木にロープをゆるく巻きつけ、カウボーイのように投げてロープを上へと移動。木が倒れる時、他の木に当たって傷がつかないようロープで誘導します。伐採作業を目の当たりにしたステファニーさんは「ちょっと怖かったけど、すごい体験をしました!」と、興奮がおさまらない様子。
続いて、木の皮を剥ぐ作業。皮を剥ぐための道具は「ヘラ」と呼ばれるもので、金属製だと丸太に傷がついてしまうため、北山杉の一番硬い部分を使った手作りです。皮の繊維に沿ってヘラを当て、切るようにこすります。さらに、皮と幹の隙間にヘラを差し込み、傷がつかないよう慎重に。ステファニーさんもお手伝いすると、ツルツルの木肌が現れました。
しかし、北山杉が床柱になるまでには、もう一つ最も重要とされる工程が。その作業は、翌日体験させていただけることに。
作業後は、石川さんに招待していただき、築121年のご自宅へ。床の間には、100年以上経った北山丸太の床柱が。経年変化で飴色になるのが特徴だそう。歴史を感じる床の間に感激した後は、京都の食材を使ったご馳走をいただき、初めての万願寺唐辛子や鮎の塩焼きを堪能。ヴァンサンさんが作詞作曲した床の間の歌も披露し、楽しいひとときを過ごしました。
いよいよ、北山杉の床柱に欠かせない大切な工程「背割り」を入れる作業を教えていただきます。背割りとは、床柱の裏にある溝のような部分。実はステファニーさん、箱根の福住楼で背割りを見て興味を持っていました。
床の間の正面からは見えない背割りには、床柱を美しく見せる重要な役割が。木は表面から乾燥していくため、中よりも表面の方が速く縮む性質があります。表面と内側で縮むスピードの差が大きいと、ひび割れの原因に。そこで、あらかじめ表面から中心にかけて背割りを入れ、中まで乾燥させてひび割れの発生を防いでいます。
背割りに使うのは、専用に作られた電動のこぎり。失敗すると木の商品価値がなくなり、今までの苦労が水の泡に。大きなプレッシャーの中、ステファニーさんが挑戦すると大成功!石川さんから「芯の部分まで背割りが入っていますので完璧です!」とうれしい言葉も。
背割りが終わった丸太は、最長1カ月かけて乾燥させ、滑らかで美しい光沢に磨き上げる工程へ。向かったのは、高さ15メートルの「菩提の滝」。滝の砂で丸太を磨きます。
石川さんによると、室町時代、旅の途中の高僧がこの地で病に倒れ、村人が看病。お礼に、菩提の滝の滝壺にある砂で、丸太を磨くように伝えたそう。
一見、粒子が粗そうな菩提の滝の砂ですが、丸太を磨いてみると粒がどんどん細かくなり、見事な光沢が! こうして「磨き丸太」が生まれ、菩提の滝の砂で磨く伝統が受け継がれてきたといいます。
背割りを入れたあと、乾燥させた丸太には必ず皮の残りや汚れが。それらを取り除くための菩提の滝の砂は、大切に保管し、長年使い続けているものです。ステファニーさんも「たちかけ」と呼ばれる丸太磨きの作業着を着て、作業を体験させていただくことに。
皮が残っているところに砂を置き、集中的にこすり取る丸太磨きは、根気が必要な細かい作業。昔から女性たちが担当してきました。石川さんの母・和子さんの指導でコツがわかってきたステファニーさんは、きれいに仕上げることができ、お褒めの言葉をいただきました。
最後に、磨き上げた丸太を水洗い。多い時には1日で15本もの丸太を磨き上げていくそう。男性職人が切った丸太を女性たちが美しく磨き上げ、植林から30年以上かけて、北山杉の床柱が完成するのです。
別れの時。ヴァンサンさんは「たくさんのことを教えてくださっただけでなく、温かいおもてなしまでありがとうございました」と感謝を伝え、ステファニーさんは「どの工程も作業は難しかったですが、技術の高さに感銘を受けました」と、皆さんへの手紙を読み上げます。
2人の床柱への思いに感動した石川さんは「これからも北山杉を継承していくためにもっともっと頑張っていこうかなと。力をいただきました」と話し、北山杉の法被とタオルをくださいました。素敵なプレゼントに、2人は大喜び!
他にも、名前入りのお箸や「たちかけ」一式、2人が伐採した北山杉で作ったコースターと写真立て、北山杉の花瓶までいただきました。「このお土産を見るたびに皆さんのことを思い出すでしょう」とヴァンサンさん。最後は皆さんとハグを交わしました。
「石川商店」の皆さん、本当にありがとうございました!