都会のど真ん中、東京・渋谷の道玄坂を上って一歩入ったところに、かつての花街・円山町がある。昨今はクラブ・ホテル街としても知られているが、下駄を履いた芸者が歩きやすいよう段差が低く造られた「芸者階段」が今もところどころに残っている。
関東大震災直前には、420名を超える芸者がいた円山町。しかし、時代の変遷とともに料亭の数も減り、現在は4名の芸者で活動中。
日々街並みが変わりゆく中で、彼女たちはどのようにして伝統文化の灯を守り続けているのか...。
「テレ東プラス」は、現役の円山芸者で93歳を迎える小糸さんと、現在の円山芸者を切り盛りしている喜利家鈴子さんを取材。小糸さんの半生、芸者になった理由、そして哲学まで...話を伺った。
B29のパイロットを睨み返してやったのよ
――今日は貴重なお時間をありがとうございます。お2人とも、笑顔が本当に素敵ですね。
鈴子「こういう商売だから、笑顔は大事でしょ。だけど小糸さんは、いつでもなんでもニコニコヘラヘラはしないの。いつもシュッと格好良くしている」
――たしかにお座敷での小糸さんは、シュッとクールに三味線を奏でていらっしゃいます。
こうしてお話しさせていただいていると笑顔がとてもチャーミングですね。小糸さんは今年93歳になるそうですが、まずは芸者になられたキッカケから教えてください。
小糸「それはね...ズバリ、芸事が好きだから。芸事が好きな父の影響も大きいわね。古くから『6歳の6月6日に芸事のお稽古を始めると、上達が早い』と言われていて、私も6歳の6月6日に三味線を始めました」
――そこから現在まで、一度も辞めることなく続けてこられたのですか?
小糸「昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まり、その間は三味線を弾くことが出来ませんでした。芸事は一切禁じられたの。私は当時目黒区(東京)に住んでいましたが、B29爆撃機が焼夷弾を落とし、東京中が焼け野原になってしまった」
鈴子「日本の家屋はほとんど木造で、障子や襖は紙だし、よく燃えてしまったのね」
小糸「そう。そんなある日、12歳だった私が買い出しのために浜辺を1人で歩いていたら、向こうから何かが飛んでくるのが見えました。それがまさに、B29爆撃機。立ち尽くしている私をめがけて、とんでもない速さで低空飛行してきたの。パイロットの顔が見えるくらい至近距離に...。浜辺だし、隠れる場所なんてどこにもないでしょ? だから私、パイロットを睨み返してやったのよ。だけど幼い女の子だったから、きっと見逃してくれたんでしょう。通り過ぎながら、私の真横をダダダダダッと打っていきました。今考えたらとても怖いわよね。だけど、その時は怖いとも思わなかった。それが戦争なのよ」
――壮絶ですね...。そんな体験を経て、戦後は再び芸事に戻られたのですね。
小糸「ええ、大好きだったからね。今も円山芸者のお座敷があれば、ほぼ全てに出ていますよ」
――沢山のお座敷の中で、お客さまとの忘れられないエピソードがあれば教えてください。
小糸「お座敷に東京ローズのご主人がいらっしゃったことがありました。その方がとても素敵で、好きになっちゃったの。私、いい男が好きだから(笑)。まだ若かったし、相手もときめいたみたいでお互いに気持ちはあったと思うけど、とにかく奥様が大変な状況でしたから...。ご贔屓にしてくださったけど、それきりね」
――やはり、お座敷でロマンスが生まれることもあるのでしょうか。
小糸「芸者と殿方がお座敷で出会ったら、ときめきがなきゃ(笑)。お相手がどう思っているかはわからないけど、私が『あの人素敵だわ』と思うことはたくさんあるわよ」
鈴子「小糸さんは面食いだからね。美しい男性が好きよね」
小糸「若い殿方と握手をすると、『あなた、明日ムンクの"叫び"になるわよ』って言うの。『私に生気をとられちゃうわよ』って(笑)。そうすると、『それでもいいです!』って握手を求めてくれたりね」
――逆にお座敷でご苦労はありますか?
小糸「芸者はいつも明るく朗らかに。昔は酒癖の悪いお客さまに困ったこともありますが、こちらもお金をいただく商売。お客さまを絶対に不快にさせてはいけません。若い時は『蹴っ飛ばして帰しちゃおうかな?(笑)』と思ったものですけどね。
私、飲兵衛に見えるでしょ? だけど本当は全然飲めないの。でも芸者は、お酒が飲めるように見せるのも腕の見せどころ。若い頃はそれが出来なくて、料亭の女将さんに怒られたこともあります。『お客さまからのお酒を断るんじゃない。"ありがとうございます"って笑顔でいただいて、ちょっとだけ口をつけて横に置いておけば、誰かが飲むから』ってね。それからは、必ずいただくようになりました」