「生き別れた姉に会いたい...」アルゼンチンの日系人夫婦が、沖縄で家族の絆に感動:世界!ニッポン行きたい人応援団

公開: 更新: テレ東プラス

海を越えて離れ離れになった姉妹が、沖縄で感動の初対面

続いて紹介するのは、南米アルゼンチンに住む、淡中眞さん、マルタさん夫婦。

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日系人同士で結婚した眞さんとマルタさん。マルタさんは、両親が沖縄からアルゼンチンに移民。首都・ブエノスアイレスから車で1時間の田舎町・フロレンシオ・バレラで、4人姉妹の3女として生まれました。

一方の眞さんは、1歳の時、家族に連れられ高知県からパラグアイに移民。猛獣が潜むジャングルを斧一つで開拓し、高校生まで苦しい生活を送っていたそう。18歳の時、当時景気が良かったアルゼンチンに行くことを決意。移住の決め手になったのは、アルゼンチンで初めて食べた伝統料理「アサード(BBQ)」の美味しさだったとか。

眞さんが27歳の時、1人で両親の面倒を見ていた25歳のマルタさんと結婚。マルタさんの両親が営んでいた花農家を受け継ぎました。

3人の子宝に恵まれ、幸せな生活を送ってきた眞さんとマルタさんですが、常に心にあったのは、ルーツであるニッポンを忘れないという想い。子どもたちには日本語を習わせ、祖国を見せてあげたいと必死に働き、3人全員をニッポンに留学させました。眞さんも高校生の時に一度だけ高知県に里帰りをしたことがありますが、マルタさんはまだ一度もニッポンへ行ったことがありません。32年前に他界した母・梅子さんの生まれ故郷・沖縄をいつも気にかけてきました。

40年頑張ってきた花栽培で得られる収入は夫婦で月およそ10万円。生活を切り詰め、子どもの教育費や生活費を捻出するのが精一杯だったそう。それでもニッポンを想う気持ちは強く、祖国の花を育てたいと、平安時代からニッポンで愛され続けてきたナデシコの種を、わざわざニッポンから取り寄せています。

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さらに、自宅でとれた梅で梅干しを作り、アサードにはニッポンの味・とんかつソースをかけているとか。

そんなマルタさんと眞さんには、どうしてもニッポンに行きたい理由がありました。
戦争で夫を亡くし、沖縄からアルゼンチンに移民したマルタさんの母・梅子さんには、前の夫との間に光子さんという娘がいました。しかし、光子さんは戦争で亡くなった父の家を守るため、祖母と一緒に沖縄に残ったそう。マルタさんは、「一度も会ったことがない19歳年が離れた姉にいつか会いたい…」そう願い続けていました。そこで、3年前、眞さんとマルタさんをニッポンにご招待!

眞さんは45年ぶり、マルタさんは初めての来日です。東京見物をした後に向かったのは、念願の沖縄。60年間思い続けた沖縄の海を満喫し、梅子さんが白黒の絵葉書を見せながら、故郷のシンボルだと語っていた首里城へ。首里城を見たマルタさんは、「本当にニッポンにいる感じ。本当に信じられない」。

……とここで、声をかけてくる人物が! 光子さんの長男・玉城雄彦さんが駆けつけてくれたのです。マルタさんは「何にも言葉が出ません。嬉しくて」と涙を流します。「これから家に行って、ぜひおふくろに会ってください」と雄彦さん。
光子さんの家に着き、いよいよ対面の時……。光子さんは、マルタさんがニッポンに来ていることをまだ知りません。雄彦さんに呼ばれた光子さんは、マルタさんを見て、最初は「なんで? いつ来た?」と驚いた様子でしたが、「おっ母に似てるさ!」とすぐさま笑顔に。

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アルゼンチンに移民した母・梅子さんと14歳の時に別れ、沖縄に残った玉城光子さん。梅子さんが送ってくれた、アルゼンチンで生まれた妹たちの写真を見るたびに、いつか会いたいと願っていました。
マルタさんは、自分の想いを手紙を読んで伝えます。「ニッポンにお姉さんがいるから、いつか会った時に話せるよう日本語を覚えなさい」と梅子さんが口癖のように言っていたこと、ニッポンに残った光子さんの気持ちが痛いほどわかるということ……。
ここで眞さんが「何年も前からね、姉さん見に行きたいって。一生懸命仕事してお金貯めて行こうかと思ったけど、全然貯まらないんだよね」と話すと、家族の皆さんから思わず笑いがこぼれます。

翌日。光子さんや親戚の方と訪れたのは「道の駅 許田」。実はここ、全国に1100以上ある道の駅のランキングで、見事1位に輝いた人気スポット。沖縄の絶品グルメが集まっています。中でも人気なのが、沖縄のソウルフード「天ぷら」。沖縄が国内生産量9割を占めるもずくは、玉ねぎやにんじんと一緒にかき揚げにするのが定番です。光子さんは、たくさん食べてほしいと爆買い! マルタさんと眞さんは、初めてのもずくに「美味しい!」と舌鼓を打ちました。

その後、到着したのは北部にある本部町。実は、梅子さんの実家が、ここ本部町並里にあるのです。光子さんも14歳まで暮らしていましたが、梅子さんがアルゼンチンに渡って以来、訪れていなかったそう。一度でいいから見たいと願った母の家は、壊れてはいたものの、家の形を保っていました。「いつまでも忘れません。姉さん、ここまで連れてきてくれて本当に感謝します」。

マルタさんには、もう一つ、沖縄で菊の栽培を学びたいという夢がありました。桜と並び、平安時代からニッポンの花として愛されてきた菊。鎌倉時代になると皇室を中心に好まれ、パスポートや50円硬貨にも使われている、ニッポンを象徴する花です。梅子さんが元気だった頃はアルゼンチンでも栽培していましたが、亡くなってからは上手く育てることができず、諦めていたそう。

向かったのは、本部町からフェリーで30分の伊江島。菊の生産量が国内2位の沖縄県で、有数の生産地です。
菊作り30年の友寄明彦さんが快く受け入れてくださいました。年に一度開催される品評会では、親子で金賞を獲得。2代目の翔平さんは農林水産大臣賞を2度受賞しています。高い評価を受けている菊作りの秘訣は、闇夜の畑一面を照らす電球。秋菊は日照時間が短くなると開花が始まるため、花芽ができないように光を当て、開花の時期をコントロールしているのです。

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摘心という大変な作業も必要。先端の芽を摘んでから10日ほど経つと、横から新しい芽が3つ出てきます。この摘心を繰り返すことで、1本で300を超える花を咲かせることができるそう。ここで2人が気になったのは、座ったままでも作業が行える「パラエモン」という作業車。アルゼンチンでは、1日中膝を曲げた姿勢で作業することもあるので、「これいいね」「日本車みたいよ!」と大絶賛。その後も、2人に菊作りを教えたいと、島をあげて協力してくだいました。

伊江島の皆さんとの別れの時。明彦さんたちと再会を約束し、「アルゼンチンでアサードしますから。待ってますから、来てください」と眞さん。すると、菊農家の皆さんがやって来て、2人が気に入っていたパラエモンとポロシャツをプレゼントしてくださいました!

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あれから3年。明彦さんご夫婦と菊農家の皆さんに、眞さんとマルタさんからのビデオレターを観ていただきます。帰国後、ますますニッポンの花作りに対する思いが高まった2人。江戸時代から愛され、春が見頃のアラセイトウの種を取り寄せて栽培していました。

実は、コロナの影響で去年の3月から9月まで花市場が閉鎖。6ヵ月間無収入になり、農園をたたむ覚悟もしていたそう。さらにイベントが減り花の需要が落ち込む中、危機を脱しようとイチゴの栽培を始めたところ、いただいたパラエモンが大活躍! そこで菊農家の皆さんが、ビデオレターのお礼にと、パラエモンをもう1台送ってくださることに。
最後「アルゼンチンに来てください! アサード!」と締めくくった眞さんに、皆さんも「アサード!」と返し、大いに盛り上がりました。

この人生で一番楽しかったことは、ニッポンに来て光子姉さんやご家族に会えたこと

60年以上生き別れていた姉・光子さんと、念願の対面を果たすことができたマルタさん。初めて会ったとは思えないほど、姉妹で濃密な時間を過ごしました。
この日は、亡き母の故郷の味を覚えてほしいと、光子さんが沖縄料理の作り方をマルタさんに伝授。沖縄家庭料理の定番、昆布と三枚肉を炒めた「クーブイリチー」や「ゴーヤーチャンプルー」を教わり、料理を囲んで和やかなひと時を過ごしました。

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別れの時。「とっても楽しかった、会えたからよかったよね。次は姉妹みんな一緒に来たらいい」と光子さん。マルタさんは「この人生で一番楽しかったことは、ニッポンに来て光子姉さんとご家族に会えたことでした。光子姉さんとお母さんのことは一生忘れません」と、色紙に書いた感謝の気持ちを読み上げ、一緒に撮った写真を添えて光子さんに渡します。マルタさんの目には涙が……。

「帰りたくないけど、帰らないといけない」というマルタさんに、「お母さんもそういう気持ちだったかもね」と光子さん。記念写真をもらって名残惜しそうなマルタさんに、「元気で頑張ってよ!」と声をかけました。

あれから3年。マルタさんと眞さんからのビデオレターを、光子さんとご家族に観てもらいます。2人の家の中には、沖縄で撮った写真があちこちに飾られていました。その中には、首里城の写真も。
雄彦さんと出会った首里城は、2年前、火災により正殿など7棟が焼失。アルゼンチンにいる日系人は、その8割が沖縄にルーツを持つことから、首里城復興を応援するため、火災直後からチャリティイベントを開催。眞さんやマルタさんも参加し、およそ350万円の寄付金が集まったそう。

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沖縄での写真を眺めては、一緒に過ごした時間を思い返しているというマルタさん。キッチンにも光子さんの写真を貼っていました。最愛の姉・光子さんの眼差しを感じながら作るのは、もちろん「クーブイリチー」。週4日作ることもあるそうですが……。「美味しい。でもね、姉さんの方がもっと上手だったね」という眞さんに、マルタさんが「文句言うな!」と返し、笑い合う一幕も。

そして今回、沖縄の家族にどうしても見せたいものがあるそう。やって来たのは、セメンテリオと呼ばれる施設。小さく区切られたスペースに遺骨や遺灰を収める、アルゼンチンでは一般的な共同墓地です。
「姉さん、ここにお母さんが休んでいるよ」とマルタさんが見せてくれたお墓には、梅子さんの遺影が。死に目に会えず、お墓はもちろん遺影を見るのも初めての光子さんは、感慨深そうに「ありがたいよ」と呟きます。

マルタさんは、光子さんとの写真をお墓に見せながら、「姉さんに会って来ました。母さんの夢が叶った。本当に感謝します」。離れ離れに生きてきた娘たちが、顔を合わせる日を夢見ていた梅子さん。その願いが叶ったことを墓前で報告することができました。「(母に)報告できてよかったよ。親孝行した」と光子さん。マルタさんから送られてきた、梅子さんの遺影も受け取りました。

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さらにマルタさんからもう一つ嬉しい報告がありました。帰国後、孫が生まれたのです。「いつか姉さんに合わせたいね」というマルタさんの言葉に、「また来れるんじゃない? みんな一緒に」と光子さん。最後は眞さんが「今度は僕がアサードをご馳走します」と呼びかけ、「また会いましょう、アサード!」と2人で大きく手を振ります。光子さんも、「アサード食べに行くからね、元気でいてよ」と手を振りました。

マルタさんと眞さんをニッポンにご招待したら、最愛の姉と結んだ絆を亡き母に報告することができ、ニッポンの家族との愛情がさらに深まりました!

9月6日(月)夜8時からは、月曜プレミア8「世界!ニッポン行きたい人応援団」を放送!

【ご招待が決まっていたのに…来日できなくなっちゃった!OLFA社に感謝を伝えたい!】
“OLFAのカッター”を愛する南米ペルー女性。自宅にはOLFAのカッターが50種類以上も!
しかし新型コロナの影響で突然の来日中止…あれから1年半…ネット中継で遠く離れた絆を結んじゃった! OLFA社員の方々と初対面!嬉しいサプライズに…感涙!

【ご招待したら人生変わっちゃった!感謝のビデオレターが届いちゃいました!】
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