異業種監督のデビューに彩られた平成元年
手塚治虫、美空ひばり、松田優作が急逝した1989年は、昭和が終わり、平成へと年号が移行する年だった。そして偶然にも、平成のはじまりは、日本映画界にある変化をもたらした。それは、「新たな才能の登場」とも称すべき新人監督たちのデビュー。平成元年に公開された邦画の本数は225本だが、デビューを果たした監督は当時としては異例の33人にのぼる。つまり、公開された映画の約7本に1本が、新人監督による商業映画だったということが窺える。そして、彼らの大半が映画以外の分野からやって来た"異業種監督"であった点も特徴。その好例が、北野武監督の『その男、凶暴につき』(89)だった。
『その男、凶暴につき』は、4億5000万円の配給収入(当時)を記録するヒットとなったほか、元NHKディレクターの和田勉が監督した『ハリマオ』(89)や、第三舞台の鴻上尚史が監督した『ジュリエット・ゲーム』(89)が公開されたのも平成元年。映画会社が自社の映画監督や俳優を育成するという性格を持っていた<スタジオ・システム>が1970年代に崩壊した後、助監督経験のない人材が映画監督デビューを果たすという流れは、現代にも通じるものである。例えばこの年には、俳優・小林旭が『春来る鬼』(89)で、脚本家・ジェームズ三木が『善人の条件』(89)で監督デビューを果たしているが、現在も継続して作品を世に送り出している"異業種監督"が北野武くらいである点は、映画を作り続けることがいかに困難であるかを物語る。
そして平成元年は、現在も活躍するふたりの新人映画監督が注目された年でもあった。ひとりは『どついたるねん』(89)の阪本順治監督。もうひとりは『鉄男』(89)の塚本晋也監督。ふたりの評価が高まった経緯には、当時の映画興行に対するアンチテーゼを垣間みることができ、大手映画会社の配給網によって全国公開された"異業種監督"たちとは境遇が対象的であった点でも特徴がある。
現在も活躍するふたりの新人監督
阪本順治は石井聰互(現・岳龍)監督や井筒和幸監督の撮影現場でスタッフとして参加。「30歳で映画監督になる」と心に決めていた阪本順治は助監督のオファーを一切断り、ボクシング映画の企画を立案。脚本が完成しないまま、当時衝撃的な引退劇を迎えていた"浪速のロッキー"こと元プロボクサーの赤井英和を口説き、『ツィゴイネルワイゼン』(80)や『陽炎座』(81)の成功によって"映画界の風雲児"と称された映画プロデューサー・荒戸源次郎に企画を持ち込んだ。その荒戸源次郎をしても、ボクシングを題材にした『どついたるねん』の企画は「石原裕次郎や寺山修司であってもボクシング映画は興行的に当たらなかった」と、二の足を踏んだという。結局『どついたるねん』は映画館での上映が叶わず、原宿に特設テントを設置して上映されたという経緯がある。これは、『ツィゴイネルワイゼン』を上映した際、東京タワーの足下にドーム型の移動映画館を設営して10万人の動員を記録したという過去の実績に倣ったもの。
阪本順治監督は本作で多くの映画賞を受賞。第63回キネマ旬報ベスト・テンでは、新人監督作品ながら第2位になる高評価を受けている。当時関西在住だった筆者は、大阪球場内に設営された巨大なテントのような移動映画館で『どついたるねん』を鑑賞している。大阪球場を拠点にしていた南海ホークスは、1988年ダイエーに売却されたことで福岡に移転。その福岡ダイエーホークスも、2005年には福岡ソフトバンクホークスの名称に変更されているように、平成の30年間に起こった経済界における栄枯盛衰も感じさせずにはいられない。現在、大阪球場跡地は商業施設「なんばパークス」となり、複合映画館「なんばパークスシネマ」がテナントとして入居している。球場が取り壊された同地で、当時はシネコンという形態によって映画が上映されることになろうとは想像もつかず、筆者にとっては隔世の感がある。
一方の塚本晋也監督はCMの制作会社に就職後、劇団「海獣シアター」を結成。そこで制作した『電柱小僧の冒険』(88)が第11回PFFアワードでグランプリに輝き、自主映画の世界で一躍注目を浴びた。その次回作として、製作費1000万円をかけて監督したのが『鉄男』。塚本晋也は『鉄男』を自主上映ではなく、劇場公開させる作戦を立てていた。当時は、大手映画会社の作品でなければ映画館での上映が困難な時代。そこで塚本晋也は、「ぴあ」などの情報誌の映画欄に作品情報を継続的に掲載させること、そして、あえて73席と座席の少ない中野武蔵野ホールでの上映を交渉。『追悼のざわめき』(88)など、一般の映画館では上映されない意欲作をヒットさせていた中野武蔵野ホールで一日一回のレイトショー上映を敢行した。
限られた上映回数と、限られたキャパ数。興行的には不利な状況にもかかわらず、『鉄男』は初日に142人を動員。一週間で586人を動員するという動員新記録を樹立させた。間もなく『鉄男』は、ローマ国際ファンタスティック映画祭でグランプリを受賞。当時、同館で番組担当をしていた細谷隆広は「日本初のカルト・ムービーの誕生」と文化通信の取材で応えている。限られた上映によって観客の飢餓感を煽るという興行手法は、『カメラを止めるな!』(18)がメガヒットに向かった過程にも似ている。また平成元年は、6人の独立系プロデューサーが集まった「アルゴプロジェクト」の結成された年でもある。既成の配給会社を通すことなく、新たな配給・興行のシステムを構築してゆくという映画界の動きもまた、現代の映画興行に通じるところがある。時代の節目は意図せず訪れるもの。ホールとの交渉のため、塚本晋也監督が初めての試写を行ったのは、奇しくも昭和天皇の"大喪の礼"の日だったという。昭和の終わりと共に『鉄男』は誕生したのだ。
そして、トムの時代が到来する。
平成元年の洋画に着目すると、もうひとつの新たな流れを発見できる。
【1989年洋画配給収入ベスト10】
1位:『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』・・・44億円
2位:『レインマン』・・・32億6000万円
3位:『カクテル』・・・17億5000万円
4位:『ロジャー・ラビット』・・・14億4600万円
5位:『ブラック・レイン』・・・13億5000万円
6位:『ツインズ』・・・12億4000万円
7位:『星の王子ニューヨークへ行く』・・・12億1000万円
8位:『ダイ・ハード』・・・11億8000万円
9位:『子熊物語』・・・7億6000万円
10位:『3人のゴースト』・・・7億3800万円
(※現在は興行収入として計上されるが、当時は配給収入として計算)
ここで注目すべきは、2位の『レインマン』(89)と3位の『カクテル』(89)、どちらもトム・クルーズがメインキャストの映画である。当時『レインマン』はアカデミー作品賞に輝いた話題作、一方の『カクテル』は日本に"カクテルブーム"をもたらした人気作だった。トム・クルーズの躍進は、地味と言われた1986年の正月興行で『トップ・ガン』(86)と『ハスラー2』(86)をヒットさせたことに始まる。当時の日本では無名だった若手俳優の出演作品が正月興行を牽引するとは、殆ど誰も想像しえなかった快挙だったのだ。『トップ・ガン』は、39億5000万円を稼いで年間興行ランキングの1位を記録。トムが着用していたフライトジャケット「MA-1」は大流行し、『ハスラー2』のヒットによって日本全国にビリヤード場が開店するという一大ブームを生み出した。
それから2年、トム・クルーズは『レインマン』と『カクテル』を大ヒットさせたことで、他の若手スターとは明らかに異なる或る種の片鱗を窺わせることとなる。実はこの2本、1990年代後半までのトム・クルーズの出演作品選びと共通する点を指摘できるのだ。初期のトム・クルーズは、『ハスラー2』のポール・ニューマン、『レインマン』のダスティン・ホフマン、『ア・フュー・グッドメン』(92)のジャック・ニコルソン、『ザ・ファーム 法律事務所』(93)のジーン・ハックマンなど、名優たちとの共演を選択している。また『7月4日に生まれて』(89)のオリヴァー・ストーン監督や『ザ・ファーム 法律事務所』のシドニー・ポラック監督など、アカデミー賞受賞監督たちとも積極的に組むことで、自身の俳優としての評価を高めようとしていたことも窺わせる。
同時に『カクテル』や『デイズ・オブ・サンダー』(90)、『ミッション:インポッシブル』(96)など、トム・クルーズ自身の魅力を重視した娯楽性の高い作品にも出演。トム・クルーズはこれらの作品を交互に公開させることで、高い人気を維持してきたというハリウッドの中でも希有な存在なのだ。そして現在に至るまで、全ての主演作を年間興行収入のベスト20位以内にランクインさせている(更に、殆どの作品が10億円超えのヒット)という唯一の存在でもある。つまり平成のはじまりは「トム・クルーズのはじまりである」といって過言ではないのだ。
(映画評論家・松崎健夫)
【出典】
「キネマ旬報ベスト・テン85回全史1924−2011」(キネマ旬報社)
「キネマ旬報 1990年2月下旬決算特別号」(キネマ旬報社)
「完全鉄男」(講談社)
一般社団法人日本映画製作者連盟 日本映画産業統計
http://www.eiren.org/toukei/index.html
就職ジャーナル「仕事とは?vol.84 映画監督・阪本順治」
https://journal.rikunabi.com/work/job/job_vol84.html
鈴木清順監督"浪漫三部作"公式サイト
http://www.littlemore.co.jp/seijun/