1976年、13歳で芸能界にデビューし、甘いマスクと抜群のプロポーションで注目を集めた川﨑麻世さん。
1977年、ドラマ『怪人二十面相』(フジテレビ系)の小林少年役で俳優デビュー、『ラブ・ショック』で歌手デビューを飾り、多くの新人賞を受賞。一躍トップアイドルとなり、多くの歌番組やドラマ・バラエティ番組に出演。
1984年、「劇団四季」の『キャッツ』出演を皮切りに数多くのミュージカルに出演。1987年には『スターライトエクスプレス』に初の日本人キャストとして選出され、『レ・ミゼラブル』、『マイ・フェア・レディ』、『細雪』などさまざまなジャンルの舞台やドラマ・映画で活躍。7月30日(金)には初主演映画『ある家族』(ながせきいさむ監督)が公開されたばかりの川﨑麻世さんにインタビュー。

◆1歳半で両親が離婚、母の実家で暮らすことに
1963年、京都で生まれた麻世さんは両親と京都で暮らしていたが、1歳半の頃に両親が離婚。麻世さんは母親と一緒に祖父母が暮らす実家(大阪府枚方市)で暮らすことになり、京都で生活した記憶はまったくないという。
-小さいときはどんなお子さんでした?-
「冒険心が豊かで、常に何か夢を見ては、何か作ろうとか行ってみようと思っていましたね。今もそうですけれども、いつも地図を見ていて、ここに行きたいと思ったら自転車で行ってみたり、やりたいと思ったことはやってみるほうでした。
スポーツもそうですけれども、野球、テニス、アイスホッケー、ローラスケートをやってみたり、書道や英語、算盤を習いに行ったり、YMCAや塾にも行ってみたりしましたけど、結局長く続いたのは書道だけでしたね」
-枚方に戻られてからの生活はどのように?-
「祖父母がいろんな店をやっていて。喫茶店と美容院と『ひらかたパーク』という遊園地のアトラクションの一部を経営していたので、枚方の実家に戻って来て母が喫茶店を継いだんですけど、当時はうちの喫茶店が忙しくてね。夜はスナックみたいにお酒を出しているから、とにかく忙しかったんです。
だから店に行かないとなかなかお母さんに会えない。あとは休憩にちょこちょこっと二階に上がってきてご飯を食べて、またすぐ仕事におりていっちゃうし。祖父母のほうが近くにいた感じです。
(遊園地の)電気自動車のアトラクションとその工場も経営していた祖父の姿を小さい頃から見ていたので、僕もいろいろやるようになって、子どもの頃にはもうバラバラの部品を組み立てて自転車を作れるまでにはなっていましたね。
あとは、常にずっとペットがいました。猫と犬はずっといましたね。猫、犬、友だち、この3セットがいつも近くにいた感じがします。人の先頭に立ってリーダー的な感じで何かをするのが好きでしたね。小さい頃から(からだが)大きかったんですよ。大きくて太っていたし、ケンカも強かったし」
-親分肌で?-
「いや、それがそうでもないんです。全然違うんですよ。自分で言うのもおかしいですけど、めっちゃいい人なんです(笑)。今も常に友だちといるんですけど、『ついてこい』じゃなくて一緒に楽しむのが好きなんですよね。あと猫と犬も大好きで」
-ブログのタイトルも『麻世仲の猫たち』ですものね-
「はい。猫大好きなんですよね。今は家では飼ってないんですけど、外にいる地域猫の面倒を見たり、たまにですけど一時的に保護猫を預かることはあります」
-常に猫や犬がそばにいたこともあって、優しさとか弱いものを守るというふうになったのでしょうね-
「そうかもしれないですね。あとは、やっぱり母親と祖父母が頑張って育ててくれたというのもあると思います」
※川﨑麻世プロフィル
1963年3月1日生まれ。大阪府出身。東京工芸大学短期大学部画像技術科グラフィックデザインコース卒業。1975年、12歳のときに出演した素人参加型テレビ番組で素人ながら番組内に「川﨑麻世コーナー」をもたされるほど大人気に。1976年、ジャニーズ事務所に所属することになり、翌年にドラマ『怪人二十面相』で俳優デビュー、『ラブ・ショック』で歌手デビューを飾り、一躍トップアイドルに。ドラマ『野々村病院物語』(TBS系)、映画『くらわんか!』(石川二郎監督)、現在公開中の主演映画『ある家族』など多くの映画・ドラマ・CMに出演。『スターライトエクスプレス』ではロンドンのオーディションを経て、日本人で初のキャストとして出演して話題に。以降、『レ・ミゼラブル』、『マイ・フェア・レディ』、『クリスマスキャロル』、『細雪』などあらゆるジャンルの舞台に出演。2010年、西本願寺での書道パフォーマンスをはじめ、デザイン、アート書道などマルチな創作活動でも知られ、2018年からは大沢樹生さんとのユニット「オッサンズ」としても活動。

◆素人参加型番組に出演、大人気に
1975年、12歳のときに関西エリアで人気の番組『パクパク・コンテスト』(読売テレビ)に、自前で作った衣装を着用して挑戦。この番組は歌入りの曲を流して振り真似をするというもの。西城秀樹さんの振り真似をした麻世さんにスタジオは熱狂の嵐となり、素人ながら番組内に「川﨑麻世コーナー」をもたされるほど大人気に。
「テレビに出演できるのは最初で最後だと思ったので、秀樹さんの歌に合わせて髪を振り乱して暴走の限りを尽くしたら客席の反応がすごくて(笑)。すごい量のファンレターがテレビ局に届くようになって、素人なんですけど番組のレギュラーになりました」
-素人でテレビのレギュラー、周囲も大変だったのでは?-
「そうですね。スタジオの出入口には何百人も女の子たちが待つようになって、実家の喫茶店にも押しかけて来るし、中学校にも電話がかかって来るようになって。
市役所の方から注意が来て、『川﨑という名字をふせて仕事をしてください』って言われたんですよね。枚方中の『川崎』という家に電話帳を見て『川﨑麻世いますか』って電話がかかってくるって。すごい迷惑な話ですよね。だから、最初は川﨑麻世という本名でテレビに出ていて、途中から麻世だけにしたんですけどもう知れ渡っていたのでダメでした」
-それだけ人気が出ると芸能界からスカウトもきたのでは?-
「はい。結構大手の事務所もありました。でも、そのときはまったく芸能界に入る気はなかったんですけど、平尾昌晃先生が主宰する歌謡教室から『一度、うちで正式なレッスンを受けてみませんか』と言われて、特待生扱いでレッスン代は無料ということだったので、受けさせていただくことにしたんです。
そうしたら、平尾先生から『歌謡教室にチョコレートのCMの仕事が来ているので、東京に来てCMに出てみないか。そしてそれをきっかけにタレントになったらいい』と言われて、夏休みに母と祖父と東京に行ったんです。
それで平尾先生の事務所でジャニー喜多川さんと会って、『夏休みの間、事務所の合宿所で遊んでいかないか』と言われて、その日からジャニーズ事務所の合宿所で寝泊まりするようになったんですけど、夏休み中に急に芸能界に入ることになって(笑)」
-急展開ですね-
「はい。ジャニーズの合宿所に遊びに行った次の日には、『麻世も出なよ』って日比谷の野音でジャニーズのコンサートに出されていますからね。意味がわからないですよね(笑)」
-はじめてステージに出たときはどうでした?-
「先輩のJOHNNYS’ ジュニア・スペシャルが紹介してくれたんですけどすごい歓声で、『東京の人たちも僕のことを知ってくれているんだ』って思いました。数千人の前で歌うことも生バンドで歌うのもはじめてでしたけど、一度でやみつきになりました(笑)」
-本当にアイドルという感じでしたね-
「僕は西城秀樹さんに憧れて、秀樹さんのマネをしていただけなんですけどね(笑)」
-生活もまったく違うようになったと思いますが、いかがでした?-
「素人のローカルタレントでしたから、まったく違いましたよね。全国放送のテレビや雑誌に急に出はじめたので目まぐるしすぎて。あれよあれよと言う間にレギュラーが決まっちゃうし。オーディションに行かされたのでジャニーさんに『どうすればいいの?』って聞いたら、『ユーは秀樹のマネをしてのびのびとからだを思いっきり動かして歌っていればいいよ』って言われて(笑)。
名前も前に枚方にいたときに役所から注意をされたことを言ったら、『川﨑麻世じゃなくて、ちょっと京都っぽい名字にしようか』ってジャニーさんが言って、『西陣麻世』とか『錦麻世』とかいろんなことを言っていましたけど、そんなことを言っているうちにもう川﨑麻世で浸透しちゃっていたので、そのままでやることになったんですよね」

◆世界に通用するミュージカルスターになりたい
13歳で芸能界にデビューした麻世さんは、ドラマやバラエティ番組などに多数出演し、人気アイドルとして注目を集める存在に。
「最初はドラマ(怪人二十面相)で、そのあとバラエティ番組の『カックラキン大放送!!』(日本テレビ系)のレギュラー、それでオーディションに受かって『レッツゴーヤング』(NHK)は6年ぐらいかな。いろいろやらせていただきました」
-その頃にはこの仕事を一生やっていくのだとご自身で思っていました?-
「はい。ミュージカルに憧れていたので、将来は世界的に通用するミュージカルスターになりたいと思っていました」
-アイドルとしての活動期間はわりと短かったですね-
「そうですね。今は結構年齢いってもアイドルとして通用していますけれども、当時は二十歳ぐらいまでという感じで、アイドルの寿命は短かったですよね、考えてみたら。ティーンエイジャーのアイドルが避けて通れない道ですけど」
ジャニーさんとメリー(喜多川)さんは、かねてから麻世さんには将来、舞台俳優になってほしいと話していて、舞台俳優への道を念頭に人脈づくりや将来の布石を着々と打ってくれたという。
「メリーさんに『合宿所を出てひとりで住みなさい』と自立をうながされ、マンションも事務所で用意してくれました。そして『演劇の勉強がしたいと言っていたでしょう。ニューヨークにミュージカルの勉強に行ってらっしゃい』と言って、往復の旅費、ミュージカルのチケット、ホテル代などすべてを事務所で手配、支払いもしてくれて。
今から考えると本当にありがたいですよね。すごい刺激を受けました。でも、着いてすぐに大変なことあったんです。まだ英語も話せなかったので、メリーさんが飛行機もファーストクラスに乗せてくれて、ニューヨークの空港に着いたら運転手が待っているし、ホテルもちゃんと用意してあるからと言われていたんですよ。
それで飛行機降りたら、荷物が1番最初に出て来て最初に外に出たら、すぐに『ヘイ』って声をかけられて、タグを見て『ミスターカワサキ、アイムユアドライバーだよ』って言われたから信じてついていったらホールドアップされてしまって。結局途中でお金を取られて解放されましたけど、殺されなくてよかったですよ。
それで車のナンバーを確認しようと思ったら、クルッとひっくり返るんですよ。犯罪映画に出てくるような感じで。近くのホテルの前に警備員のような方が立っていたので説明するんだけど、当時は英語が話せないから相手にしてくれないんです。
そうこうしているうちにどんどんその車は行っちゃうし、まあしょうがないですよね。結局、メリーさんが用意してくれていた運転手さんもずっと空港にいたんですけど、僕がキャッチに引っかかるのが早すぎちゃったんですよね(笑)。
着いてすぐ『コーラスライン』を見に行くことになっていたんですけど、怖くて客席ばかり気にしていましたね。暗いところで怖いと思って警戒しながら見ていました」

◆ユル・ブリンナーに衝撃を受けて
ニューヨークに到着早々、危ない目に遭ってしまった麻世さんだが、『コーラスライン』をはじめ、『キャッツ』、『シンギング・イン・ザ・レイン(雨に唄えば)』ほか、数多くの舞台を見て刺激を受けたと話す。その中でももっとも衝撃を受けたのは『キング・アンド・アイ(王様と私)』だったという。
-ユル・ブリンナーの『王様と私』はチケットが取れないことで有名でしたが、よく取れましたね-
「メリーさんが全部用意してくれたんです。今、これを見ておけばいいという芝居をメリーさんが調べて、チケットを押さえてくれて。ユル・ブリンナーのあの演技が見られたのは、今から考えるとすごいなぁと思います。
『ガンに侵されている』と言われていて、病院から劇場に来てやっていたと聞いたんですけど、舞台上ではウソのように元気でお芝居をやっているんですよ。でも、カーテンコールのときにはお客さんたちは全員立って拍手しているんですけど、ヨロヨロしながら前かがみで歩いて出てきて、『これがさっきまでステージに立っていたユル・ブリンナーなのか?』と思うくらいで。
それでステージの真ん中に来たときに、客席の下手の端から上手の端まで、次に2階の客席をなめるように見回す。それから再び1階の客席に目を落とし、今度は上手の端から下手の端までスーッと見回してバーンと両手を宙にかざすんです。それだけなんですけど、お客さんはみんな『ワーッ』と地響きのような大歓声で、全身に鳥肌が立ちました。それを聞きながら戻って行くんですよ。
大変な病気を患いながら命を削るようにして舞台に立っているユル・ブリンナーの凄まじい気力はどこから来るんだろうって、興味をもつじゃないですか。だから楽屋口まで行ってみたら、ストレッチャーに乗せられたユル・ブリンナーが救急車というか病院の車に乗せられて行ったんですよ。
『舞台に命をかけるとはこういうことを言うのだよ』と言われたような気がして、あのときの感動と衝撃はやっぱり忘れられないですね」
衝撃は一晩たっても消えず、頭の中はユル・ブリンナーのことでいっぱいで、アイドルから俳優への転換点に立っている自分自身について考えさせられたという。
次回は津川雅彦さんと運命の遭遇、亡き友・沖田浩之さんとの日々、日本人初のキャストとなった舞台『スターライトエクスプレス』などについて紹介。(津島令子)

©︎『ある家族』製作委員会
※映画『ある家族』公開中
配給:テンダープロ
監督:ながせきいさむ
出演:川﨑麻世 野村真美 寺田もか 木本武宏(TKO) 秋吉久美子(特別出演) 木村祐一ほか
2020年1月に上演された川﨑麻世演出・プロデュース・作詞作曲・主演の朗読ミュージカル『ある家族-そこにあるもの-』のストーリーをベースに、児童養護施設の「ファミリーホーム」を舞台にそこに生きる人々の姿を描く。
養育者として「ファミリーホーム」を経営する一ノ瀬泰(川﨑麻世)・陽子(野村真美)夫妻と娘の茜(寺田もか)は、育児放棄、いじめ、障害などさまざまな問題を抱え、家族と暮らせなくなった子どもたちとともに暮らしているが、ある思いがけない事情により、ホームの終焉が静かに近づいて…。